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番外編:君の名前にさよならを。 一

本編から三年後のお話です。 椿 二十九歳。 志岐 二十六歳。 桜田 三十歳。 相馬 二十八歳。  ◇  よく晴れた穏やかな春の朝だった。  瑞希の部屋の窓からは、通りの桜並木が見える。その桜を見るために、瑞希はベランダに出た。何日か前に開花宣言がされたことをニュースで見た桜は、すでに満開になっていた。  そんな花の様子を見て部屋に入る。  花見の誘いでもして、今日も相馬の家に行こうかなと考える。天音も誘いたいけど、彼はここ一年ほどでぐっと有名になった。未だAV男優である自分と表立って一緒にいるのはよくないだろう。天音を誘えないなら、由人を誘うのも躊躇われる……。  ──志岐天音が歌手として再デビューしてから三年が経った。初めはやはり、元AV男優、そしてAmeとして世間を欺いていた天音を面白可笑しく言う人が多く、彼が傷つけられることばかりだった。  それをねじ伏せたのは、彼の実力だろうと、瑞希は考えている。  三年間一緒に仕事をしていても知らなかった天音の歌。それは本当に驚くべきものだった。  音楽なんてさして興味もなく、完璧な素人である瑞希でもわかるほど、彼は歌が上手く、そして人を惹きつける詞を書くことができる子だった。  あんなに口下手なのに、詞は人の心の奥にまで染み入るものを書くのがとても不思議で、そして誤解ばかりだった彼の心を他人が理解できるようになるものだから、嬉しいことでもあった。  天音と椿由人との仲は、良好に続いているようだ。ときどき喧嘩をして瑞希や相馬に二人が泣きついてくることもあるが、いつの間にか仲直りしてる。迷惑な話だと相馬は言うけれど、自分が二人にとって今もそういうポジションでいることは、とても幸せなことだと瑞希は感じていた。  由人はまだ天音に名前で呼ばせない。付き合って三年も経つのに、自分との約束を律儀に守ってくれている。天音には申し訳ないことなのに、どうしても嬉しいと思ってしまう。それはまだ、彼に想いを寄せているということなのだろう。  我ながら、なんとも女々しい。  自分の執念深さに瑞希が苦笑したとき、テーブルに置いていた携帯に着信があった。  表示される名前は高校の同級生のもので、数年ぶりの連絡に眉を寄せた。  瑞希がゲイだと知っている学生時代の数少ない友人で、AV男優としての「桜田ヒロ」という名前の由来でもある“ヒロ”と瑞希の関係も知っている男である。現在もヒロと付き合いのある彼とは、瑞希の方から自然と距離をおいていたし、それはきっと相手も知っているから、連絡も寄越さないのだと思っていたのだが。 「もしもし? 佐伯?」 「よ、久しぶりだな、桜田」  いつ聞いても陽気だった彼の声に、張りがない。まあ、自分も佐伯も今年三十路。会わない間にいくらでも何か経験することはあったのだろうと納得することにした。 「本当に久しぶり。何年ぶりだろ? よく番号わかったね」  佐伯とは高校、大学が同じだった。しかし卒業後は一度も会っていない。その頃とは携帯も変えてしまっているし、よくわかったものだと思った。 「色々聞き回ってやっとわかったんだ。一ヶ月も聞き回ってたんだぞ。お前実家も引っ越してるもんだから」 「実家まで行ったの?」 「そうだよ。まあ、マンションだったから引っ越してるだろうなとは思ったけどさ」 「四、五年前かな? 家を建てて」 「へえ。遠いの?」 「いや、近くだよ。佐伯が行ってくれたマンションのわりと近く」 「じゃあ大学のダチに片っ端から連絡するより実家探す方が早かったかもな」  大学の友人に片っ端から、という言葉に瑞希はさすがに変に思う。一体何があったと言うのだろう。  瑞希が黙ったことで、佐伯も何か察したのだろう。少しの沈黙ののち、彼は口にした。 「ヒロがさ……」  ヒロ。  その名前を出されることは、予想していた。元々ヒロの友達だった佐伯だから、佐伯が瑞希に用があるのは、ヒロ絡みだろうと思ったのだ。 「……何? ヒロが何かしたの? ヒロに関しては、悪いけど俺もできることが限られてるよ」  その可愛らしく綺麗な顔に反し、ヒロは素行のいい子ではなかった。付き合っているときにその尻拭いをしていたのは瑞希で、瑞希と別れたあとは佐伯が世話を焼いていた。 「いや……何かしてほしいとかじゃないんだ。ただ、お前にも言っておこうと思って……」  佐伯の歯切れの悪い言葉の理由は、すぐにわかった。  聞かされた言葉に、全身が震え、呼吸が乱れた。どうやって電話を切ったのか覚えていない。  “ヒロが死んだ”  その事実を、どうやって受け入れれば良いのか、わからなかった。  瑞希がヒロに出会ったのは高校三年生のクラス替えで同じクラスになったときだった。  目立つ容姿をしていたヒロと、同じく目立っていた瑞希は、同じクラスになると自然とよく話すようになった。お互い、相手も同性愛者であると感じていた所為もある。  瑞希もヒロも、高校生のときにはすでに自覚していたから。  無邪気で天真爛漫な天使に見えて、本当は人を魅了する可愛い小悪魔。瑞希はそのギャップに見事に惹かれ、ヒロはそんな瑞希を自分の手元にキープしておくように付き合うようになった。  ヒロが自分を好きになってくれたわけではないとわかっていたが、付き合って肌を重ねていたら、そのうち情も湧いてくれるだろうと思っていた。  多分ヒロが自分を放さなかったのは、自分が世話を焼くのが好きで、セックスもそこそこ上手かったからというだけだと、わかっている。それを感じながらも、大学二年まで付き合っていた。瑞希は完全にヒロに惚れ込んでいたから。  大学生になってからヒロはますます遊び歩くようになって、瑞希以外に何人もの人間と身体の関係を持っていった。瑞希はそれに気づきつつも、いつも最後には自分のところに帰ってくるから、それでいいと思っていた。そうしていつか、瑞希がまっすぐにヒロだけを愛してるということが伝わってくれたらと。  大学二年になったばかりのその日、いつもの様に瑞希の家でセックスをしたあと、ゴムを外す瑞希を見て、ヒロが腹を抱えて笑い出した。 「何? どうしたの?」  楽しそうに笑う彼は本当に可愛くて、瑞希はその頭を撫でながら訊ねた。 「はは、いや、瑞希さあ、ほんとエッチ上手いよねえ」 「ん? そう? ヒロに気持ちよくなってほしいから、いろいろ考えてるんだよ」 「ふふっ、瑞希は俺のこと大好きだよねえ」 「うん。大好き」  可愛いこの子が好き。白い肌も、コロコロ笑う高い声も、全部可愛い。セックスしているときの喘ぎ声は、声だけでイってしまいそうになるくらい好き。  もぞもぞと、ヒロはベッドを降りる。ベッドの足元の本棚の前へ立った。  その行動の意味がわからず、瑞希は首を傾げる。 「ヒロ? どうしたの?」 「これ、気づかないの? 瑞希」  ヒロはそう言って本棚へ手を伸ばし、数冊の本を移動させる。奥から出てきたのは、カメラだった。 「……何、それ」 「撮ってたの。もう何回も撮ってるよ。瑞希ってば俺に夢中で気づかないんだもの」  にっこり笑ったヒロは、瑞希の元に戻ってくる。今撮った映像を、瑞希に見せる。動物のようにヒロにがっつく瑞希が映っていた。 「え……、これ撮ってどうするの?」 「売るんだよ。っていうか、もう何回か売ってるけど」 「売るって、え? これ、この映像を?」  ヒロの言っていることがわからなかった。 「飲み込み悪いなあ。頭いいくせに。顔もいいしエッチも上手いし、こういうの撮るのにはもってこいだよね」 「待ってヒロ……、全然よくわからないよ」 「いいよ、わかんなくても。瑞希は俺の金蔓ってとこ? そう言っても怒んないでしょ? 瑞希は馬鹿みたいに俺のことが好きだもんね。どうせへらへら笑うんだろ? 優しいもんね」  ヒロの言葉が、瑞希の心を黒い色でじわじわと侵食していく。  うん。言いなりになってへらへら笑ってた俺は、本当に馬鹿な奴だよ。好きになってもらいたくて、何でも言うこと聞いた。優しい? そうだよ。大好きな人に、優しくしたいのは当たり前でしょう?  好きになってほしかった。俺のことをわかっていてほしかった。  ああでも、何も伝わってなかったんだね。こんなときでも、へらへら笑える奴だと思ってた?   ねえ、笑うのは癖でもなんでもないんだよ。出会ったとき、ヒロが俺の笑顔が好きって言ってくれたから。  そんなことさえも、ヒロには伝わっていなかったんだね。 「泣くの? 瑞希。そんなウザい奴だったんだな」  黒い染みが広がっていく。綺麗で可愛いこの子を、傷つけたくなる。  それは、嫌だと思った。離れた方がいいと、初めて思った。 「ヒロ……ヒロ……、別れよう……」  一言。  一言、初めて別れを口にした瑞希に、ヒロは笑った。追いすがることなんて何一つ言わず、最後に「毎度あり」なんて顔に似合わない言葉を残して去っていった。  それが瑞希とヒロが交わした最後の言葉だった。

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