「教えて、もらえますか?」 　桜田の瞳をまっすぐに見て、椿は尋ねる。 　知りたい。優しいこの人の、本当の名前を。 「桜田瑞希です」 「瑞希……」 「ヒロと掠ってもないでしょ。驚いた?」 「いや、全然、別に……」 「ヒロって言うのは、友達の名前。酷いでしょ。AVに出るための名前に友達のを使うって」 　不思議だった。 　桜田らしくない行動に思えたから。 「友達っていうかね、元彼?　可愛い子だったんだけど、こっ酷く振られてさあ。俺もまだ若かったから、自棄になってAV男優なんて始めちゃって。腹いせに名前を使うとかね、若かったねえ。ヒロを、汚したかったんだなあ」 　桜田はそう言って苦笑する。 「失望した?」 　椿は首を振る。 　桜田は本当に優しい人だから。そこまでする何かが、その“ヒロ”さんとの間にあったのではないかと思う。だから桜田の今の言葉だけで、失望したりできない。 「瑞希……さんがこれまでどうやって過ごしてきたのか、いつかちゃんと聞きたいです」 「呼び捨てでいいよ」 「……瑞希」 　目を見て呼ぶと、桜田はふにゃっと力を抜くように笑った。 「あはは、照れるね」 　わずかに赤くなった顔は、これまで見たことがなかったもので、椿までむず痒くなってしまった。 「で!　このメールの相手が!」 　逸れた話を元に戻す。誤魔化せないのだから、正直に思ったままを話して、何か手がかりになったらいいと思った。 　数ヶ月前に中高の後輩である相馬と再会したことを話した。相馬が昔から自分に好意を持っていて、あのとき志岐に嫌がらせをしていたことも話した。挿入はなくとも相馬とセックスをしたことは、話さなかった。脅されて何度か相馬と会っていた自分を志岐が助けてくれて、相馬のことも救ってくれたのだと言った。 　話しながら椿は思い出す。 　そうだ。あのとき、志岐の言葉で相馬を引き留めることができた。相馬だって、以前の椿だったら引き留めることなんてしないとわかったはずだ。志岐のおかげで、また話せるようになったとわかっていたはずだ。それなのに、今更志岐に何かするか? 「その相馬って子と会ってみようか。椿君が知らないことがありそうだ」 「俺が知らないこと?」 「うん。そもそも、その子がどうしてあめの自宅や事務所、君との関係を知ったのかがわからない」 「相馬は、俺がAmeのファンだったことを知ってたんです。それで調べたら、顔がそっくりな志岐が出てきたらしくて。ネットで調べれば事務所なんかも出てきますよね?」 「うーん……それで椿君があめのファンとかなら、確かに事務所や自宅を調べたりするかもしれないけど、あくまで君が好きだった歌手に似てるAV男優に過ぎなかったわけだよ?　それだけでそんなに深く調べるものかな?」 　桜田は納得していないようで、首を傾げている。椿も以前相馬に会ったときのことを思い出してみる。 　相馬は何と言っていたっけ? 　椿がファンだったAmeとそっくりな顔をした志岐に興味を持って調べていたら、椿が自慰をしているあの動画サイトに辿り着いたと言っていた。言われてみれば、相馬がそこまで志岐を調べたことは不思議なことに思える。 「俺も一緒に会いに行ってもいい?」 「え、桜田さんが?」 　すごく複雑な気持ちになる。相馬も桜田も自分を好きだと言ってくれているのに、情報を聞き出すのは自分が好きな志岐のため。 　それに。 「結構危ない奴です。一緒に来てもらってもいいですけど、あいつの手が届く範囲にはいかないでください。俺のすぐ近くに必ずいること。それならいいです」 「椿君のすぐ近くにいろって?　うわあ、それなんか嬉しくなっちゃうなあ」 「真面目なんですけど!」 「わかってるわかってる」 　へらへら笑う桜田は信用ならない。相馬に余計なこと言って手を出されたら堪らない。まあ、今度は志岐を人質に取られているわけではないから、遠慮なく反撃できるから大丈夫かと思い直す。 　相馬に、いつでも予定は合わせると返信を打った。返事はすぐにきて、翌日会うことになった。 　◇ 「その人、なんだっけ、名前忘れたけど、志岐天音とよく絡んでる人だ」 　相馬の口から志岐の名前が出てどきりとした。そんな椿を見透かしたかのように、相馬は淡く笑った。 　相馬の家に来ている。 　家に来てほしいと言われ警戒したのだが、桜田も一緒に行くと伝えても変わらず家に来てほしいと言う相馬に、押された形だった。 　あれ以来初めて訪れる相馬の家に、椿の身体は自然と緊張した。しかし、心は安定している。それは、隣に桜田がいてくれる所為なのかもしれない。 　以前はそれどころではなくて、どのような部屋かよく見ることもしなかったが、今日初めて意識して見回した整然としたリビングは、本が好きで、高校のときから不良にはとても見えなかった相馬らしさを感じさせた。 　相馬の目鼻のすっきりした端正な顔は、数ヶ月前に会ったときよりも、少しだけ穏やかな表情をしているように思った。あのとき、志岐に嫉妬をぶつけた相馬とは違う。確かにそう思い、やはり電話で感じた相馬の企みは気の所為だったのかもしれないと、椿は思った。 「桜田ヒロです」 　桜田が、椿の真横で軽く頭を下げる。椿が言ったことをきちんと守っていて、椿のすぐ近くに立っている。 「こんにちは。相馬秋良です。先輩……椿さんとは中高が同じでした」 「聞きました」 　その声にわずかな冷たさを感じ、椿は桜田に視線を向けた。 　いつもどおりの穏やかな笑顔に見える。しかしどこか、その眼差しは冷やかに感じた。 「そうですか。先輩、どこまで話したの?　俺が先輩を脅して無理矢理ヤったことは?」 「は!?　相馬何言い出すんだよ!?」 「ああ、話してないんだ。ごめんね、先輩」 「お前全然謝る気ねえだろ!」 　可笑しそうに肩を揺らす相馬を睨む。こいつ、絶対わざとだ! 　一方桜田は、ぎゅっと椿の腕を握った。 「椿君、今のどういうこと?」 「あ、いや、その」 「脅されたってそういうこと?　金とかじゃなくて?」 「あの、その、だから、えーっと」 「ねえ、由人」 「そっ、こういうときに名前呼ぶな!」 「名前呼ばれると弱いってわかったからね。こういうときに利用させてもらわないと」 　にっこり微笑む桜田は、しかし目がちっとも笑っていない。思わず喉がひくっと鳴る。 「……これに関してはあとできちんと話すから、今は突っ込まないで。……瑞希さん」 「はは、由人君の反撃だ。しょうがないなあ」 　やっといつもの柔らかい笑顔を浮かべた桜田に、椿はほっと息を吐く。しかし、今度機嫌を悪くしたのは相馬だった。 「志岐天音がいなくなったらそいつなわけ?　先輩何なの?　床上手が好きなの?　俺もAVに出たら振り向いてくれるの?」 「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ!」 「 馬鹿なこと?　俺は真剣に聞いてるんだけどね」 「真剣に聞いてんなら真剣に答えるけど、答えはNOだ!　お前がAVに出たって絶対見ねえからな!」 「ああそう。俺だって先輩以外の男とヤるなんて絶対やだね」 「じゃあ最初から馬鹿言うんじゃねえよ!」 　おかしい。志岐のことを聞きに来たはずなのに、この二人のペースに完全に飲まれている。まだ自己紹介しただけなのに、なぜ。 「まあわかるのは、俺は絶対この人と気が合わなそうってことだね」 「そう?　君が椿君に何もしないなら、俺はいい友達になれると思うよ。椿君に何もしないなら」 　最後、桜田は語気を強めて繰り返した。 「先輩に何もしないなんてことありえないから、やっぱり友達にはなれませんね」 　笑顔でそれを受ける相馬。 　おかしい。穏やかに笑顔を浮かべる二人が、殴りかかってくるような相手よりずっと怖いと、椿は顔を引きつらせた。 　しかしそれどころではないと思い出す。相馬に確かめなければならないことがあると。 　促されて桜田と並んでソファに腰掛けてから、椿は相馬に尋ねた。 「相馬、俺に何か用があったんだろ?」 　溜息を吐きながら尋ねると、相馬はわずかに首を傾げた。桜田が気に入らないのか、壁に寄りかかって一定の距離を保ったまま答える。 「うーん、用事っていうか、確認?　先輩が元気かどうか」 　そんなことを確認してどうするんだと、頭の中に疑問符が浮かぶ。数ヶ月会っていなかったのは本当だが、電話では何度か話していた。いやそれ以前に、今そんなこと聞くか? 「……お前、テレビ見てないのか?」 　相馬はすっと目を細めた。 「志岐天音のことは知ってるよ。だから先輩が元気かどうか確かめるんじゃん」 　それから、思わぬことを口にした。