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拾漆
あれから二日経った晩は赤く大きな月が不気味に空を照らしておった。
先代帝の崩御、右大臣滝原家での殺人、羅生門の鬼の死、続けて起こる不祥 に京の貴族たちは恐ろしがる。そしてこの夜の月に、抱えの僧を呼び祈祷をする。己から凶を払うため。
承明門の先、紫宸殿 の前でも多くのものが帝を祟りから護るよう祈る。当の帝は清涼殿 の夜の御殿 で胡座をかいておられた。夜の御殿には烏帽子も脱ぎ、白い単 の上に墨色の小袖をうちかけただけの形。共におる広彦は静かに硯 を擦る。
「広彦、龍王寺に潜んでた紫雲からきたぞ。」
「ほう、紫雲は何と奏した。」
「死装束を着た閻魔のような男がひとり、寺の門を潜った。」
「なぁ、れい。これを案じておったのなら止めることも出来たのではないか。」
広彦は帝、今は只のれいという少年を説くが、れいは知らぬふりで赤い月が昇る空を眺め遣る。
「心得ておったから、俺は滝原靖久 を使ったまでだ。使えるものは使う。この世を混沌が統 ぶことを止める為であるなら、幾らでもこの身を穢す。」
れいは右の掌を見る。
「それに、靖久 と青成 にとっちゃ京 は地獄だろう。解き放ってやれ。」
――仏説 摩訶般若波羅蜜多心經
赤い月明かりの下に現われたそれは鬼より恐ろしきものだった。
いつも龍王寺を護る僧兵達、つまりは康黄の手の者はすべて山を降っておった。
矛の心得も知らぬ落ちた僧は槍を握り震えるしかすべがなし。
――観自在菩薩 行深般若波羅蜜時 照見五蘊皆空 度一切苦
「うわあああああ!」
「来るな…来るなああああ!」
――舎利子 色不異空 空不異色 空即是色 受想行識 亦復如是
「慈悲を…慈悲をおおおお!」
「ああああああ!鬼じゃあああああ!」
「康黄!何処だぁぁぁぁ」
――舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減
「待て、ここは御仏の…御仏のおられる…ぐあ゛ぁ!」
「なれど仏身が酒池肉林を興じておったか…地獄で苦患 を味わえ。」
鬼の纏う白装束、死装束は返り血で染まる。頬から血の涙も伝い流れておった。
門から境内は坊主の屍が十以上転がる。首と体を離されたものも一、二と。
――是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
ひたひたと境内の段を上ると、草鞋の跡は血で見解ける。
鬼になった男の眼はもはや此の世のものではない。修羅である。
――無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至 無老死 亦無老死尽
「せ、い…青成……せい、じょ……。」
――無苦集滅道 無智 亦無得 以無所得故 菩提薩埵
まだ生きて幾度も、その生を終えるまで呼んで笑い過ごしたい。そう願った。
――依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
己の位も捨て、冠も邸も京もいらぬと思えた。恋しきものが隣におるだけで良かった。
共に生きるならばと、軽しく思うてた総隊長にも頭を下げようとした。
――三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
(青成…輪廻転生があるならば、私は次も、其方を見つけ、其方を愛で…ま一度、想いを伝えよう。)
――故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪
「わ、儂 は何も…安原殿に命ぜられ、儂は何もしておらぬ!」
「慎め……貴様は、冷泉の失脚と命…それを己でなく私の青成を使い…!」
「あの忌々しい餓鬼をもとにおいただけでも儂は極楽浄土へ…。」
「戯言よ。」
――是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
青成に選ばせた、忌まわしきものを瞋恚を込め斬り刻む。慈悲を請うた声も喉を斬り消し、耳を削ぎ落とし、目ん玉も抉り、すべてを消すように。
――故説 般若波羅蜜多呪
赤い死装束を引き摺り、境内をゆるりと脱し、常々落つることを危ぶまれた崖の渕へ歩む。草履は切れ、素足のまま。小石や枝が刺さろうが、もはや痛みは無く。
――即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
「靖久、此方だ。」
天から、地から、幻ではない、青成の澄んだ愛し声がする。
靖久はそれに安堵し涙を一筋、流る。
前には青成と会う誓いをした羅生門があり、青成は只の麗しい僧の容姿 で。
「青成、今、行くぞ。」
――般若心経
京では宵が明け、曙、物々しい祈祷が終わる。
「五月蝿い、夜だったな。」
朝靄の中、龍王寺に戻る僧兵隊は道中、血の赤に染まりきった衣を纏う尸を見つけ、先を歩いておった僧がふたり、膝をつきそれを弔う。
「……菩薩のように眠りやがって…地獄でも、此の世よりは幸いのようだな。」
その顔を覗き、僧は天を向いた。
「此処は、京は、生き地獄かもしんねぇな…れい。」
其れから崩御された帝の荼毘と殯 の儀が終わり、帝の座に冷泉帝がおわす。
右大臣滝原朝臣靖久は刺客により殺められたこととされ、それを放ったと左大臣安原咲麻呂は勅命の下、処された。
「れい、お前もちったあ悪いと思ってんだ。」
「黙れ。」
荒れた世が鎮 んだころ、直垂が不自然なふたりの男が羅生門の下におった。ひとりの背の高い一目で麗しいとわかる男は膝をつき、二輪の赤い躑躅 の花をおいた。
「弥生、貴様は輪廻転生を信じるか。」
「信じねぇ。此の世も信じられねぇのに仏様とか神様とか信じろとかあり得ねぇ。仏罰だって結局人の手だしな。」
「は、言えてる。」
「つーかお前も仏教だの説法だの信じねぇだろうが。」
「さ、墓参りも済んだしさっさと帰るぞ。」
「此処、墓じゃねぇけど。」
「墓だよ。俺たちがあいつらを出会わせて引き裂いた処 だからな。あいつらの縁 の墓だ。」
ふたりの男が去ると、強く風が吹き、一輪の躑躅は川の方へはぐれた。
しかし、また風が吹くと、もう一輪の躑躅がそれを追いかけていった。
――完
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