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01 雀谷利人の日常〈1〉

 雀谷利人(すずめだに りひと)の一日は弁当作りから始まる。六時より少し前に鳴る目覚まし時計で目を覚まし、一階に降りて顔を洗いエプロンをつける。 「あふ……おはよ、りー(にい)」 「おはよう伊里乃(いりの)」  熱したフライパンの中でじゅうじゅうと音を立てて流し入れた卵液を巻いていく。焦がさず綺麗に巻くには気の抜けない瞬間だ。そんな利人に声を掛け隣に立つ少女に利人は口角を上げ一度だけちらりと視線を向け朝の挨拶を送る。  いつも利人より少し後に起きてくるのは妹の伊里乃だ。ぴょんぴょんと遊んだ髪は利人と同じ赤みがかった栗色で、肩まで伸びた髪は肩にぶつかり弓なりに反っている。融通の効かない硬い髪を伊里乃は煩わしいと言っていたが、利人は彼女のそんな髪が好きだ。跳ねた髪も愛らしい。  伊里乃はコップに注いだ水をごくごくと飲み干すと洗面所へ向かう。その足取りはまだ気怠いが、数分後出てくる時には髪を耳の下でひとつに纏め大きな目もぱっちりと開いている。 「じゃあ番長の散歩行って来るね」 「おう、行ってらっしゃい。あっ帰りに牛乳買って来てくれる?」 「ん」  ざあざあと手を洗い伊里乃の後を追って玄関へ向かう。サンダルに足を突っ掛け扉を開けると、伊里乃が飼い犬の首輪に散歩用のリードを繋げている所だった。 「気ぃつけてな」 「うん。行ってきます」  ぽんぽんと伊里乃の頭を撫で、そして番長と呼ばれる犬の頭や顎の下をわしゃわしゃと撫でる。番長の朝の散歩は基本的に伊里乃が担っていて、陸上部に所属している為犬と共に近くの公園まで軽くランニングするのが日課だ。  そして七時。パンにベーコンエッグ、作り置きの野菜スープがテーブルの上に並び、帰って来た伊里乃と目を擦りながら起きて来た父と共にテーブルを囲む。 「利人君このベーコンすごいね、厚いよ」 「お店に出せないの貰って来たんだけど美味しいだろ? 伊里乃、醤油取って」 「はい。ねえりー兄、今日も帰り遅くなる?」  部屋の壁掛けカレンダーには各々の予定が書き込まれている。太い字で『六』の数字が書かれたそのカレンダーには紫陽花とかたつむりのイラストが添えられていた。  月の後半に差し掛かった本日水曜日の欄には『バイト』の文字はなく、バターロールを千切りながら何気なく紡がれた伊里乃の言葉に利人は一瞬どきりとして視線を泳がせる。 「あー、どうかな。研究室が長引けば、そうかな。何で?」 「数学教えてもらおうかと思ったんだけど、それならまた今度で良いや」  伊里乃は利人の僅かな動揺に気づく様子もなくパンをもぐもぐと咀嚼する。一足早く朝食を食べ終えた父はご馳走様でしたと静かに手を合わせて食器を重ねた。 「伊里ちゃん、塾に通ってるんだから塾の先生に聞いたら」 「だってパパ、私あの先生あまり好きじゃないんだもん。それにりー兄の方が分かりやすいし」 「ちょっと待て伊里乃、嬉しいけど待って、もしかしてお前虐められて……ま、まさかセクハラされて」 「りー兄、頭大丈夫? 飛躍し過ぎ落ち着いてよ」  顔を強張らせ先程とは別の動揺を露わにする利人にぴしゃりと伊里乃の低い声が重なる。利人の心配を余所にやれやれと片付けを始めた伊里乃は父に続いて食器を流しの中へ置いた。 「だってこんな可愛い女子高生いたら普通に起こりかねないだろ!」 「起きないから。ていうか身内の欲目に過ぎないからね? もっと可愛い子なんて沢山いるし私は普通です」 「私は伊里ちゃんがいいなあ」 「父さん、アウトです」 「お前もアウトだ」  何だかよく分からない会話である。利人も利人だが父も父でのほほんとしていながら常識とは少しずれた反応をする事が多く、こんな会話は日常茶飯事だ。  雀谷家は父母共にほのぼのとしており、マイペースな二人に子供達が振り回される事がしばしばある。けれど利人は妹への愛情が人一倍大きく、その分心配性でもあった。  伊里乃の通う高校は自転車で行ける距離だが、部活の終わった後塾に行くと帰りが遅くなる為に塾通いを反対した程だ。因みに結局近所の塾に通うという条件の下利人は渋々合意したのだが、それでも暫く利人による夜のお迎えは続いた。  詰まるところ、利人はかなりのシスコンなのだ。両親が子供に対して比較的放任なせいか、余計過保護に拍車が掛かっている。  そうして弁当を持たせた父と妹を送り出し洗濯物を洗濯機から取り出していると、夜勤明けでぐったりとくたびれた様子の母が帰って来る。 「ただいまぁ……そしておやすみなさい……」 「おかえり母さ……あッ、前見て前、前!」  ふらふらと頼りない母の足は二階の寝室へ向かうべく真っ直ぐ向かうが足元は覚束なく、利人の警告も虚しくごつんと頭をぶつけてしまう。やっぱりやった、やると思ったと利人は半ば呆れながら、頭を押さえて階段を上っていく母の後ろ姿をひやひやしながら見送った。  洗濯物を干し終えると時計の針は丁度九時に差し掛かる。今日の天気は晴れのち曇り。母がどんなにぐっすり眠ったとしても洗濯物が雨に濡れる事はないだろう。けれど近々訪れると予報されていた梅雨の到来には頭が重くなる。いい加減調子の悪い乾燥機をどうにかすべきだろう。  両親共働きの雀谷家では家の事を家族で分担している。大学生になり朝の時間に余裕が生まれやすくなった利人が率先して家事をするのはよくある事で、特に料理に関しては美味しいと好評だ。 「やべ、時間」  そしてこれからが学生としての利人の時間である。利人は手早く身支度を済ませプラスチックの四角い鞄に教科書や参考書を突っ込む。  忘れ物がないか確認すると、携帯電話を鞄のポケットに入れ玄関を出た。利人の携帯電話はシルバーの所謂ガラケーだ。スマートフォンが広く普及している現代においてマイノリティなのは承知しているが、電話とメールが出来れば十分な利人にとってまだ使えるそれを買い替える理由はない。細かな傷は多いがこれで中々物持ちが良いのだ。  犬小屋から飛び込んでくる番長をわしわしと撫で、ごめんまた後でなと言って走り出す。

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