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02 雀谷利人の日常〈2〉
「は、間に合った……」
肩で息をしながら利人は丁度ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んだ。ピークを過ぎた後とはいえ、大学の最寄駅へ向かうこの電車を使う学生は少なくなくそれなりに混み合っている。さっと車両の中を見渡すと、早速見知っている人間を見つけた。一部始終を見ていたのか、彼女はじっと利人を見ている。
「おはよ、利人。ぎりぎりセーフだったね」
ふんわりと緩く巻かれたショートの髪に切れ長の涼しい目元。クールな印象を与える端整な顔の彼女は艶やかな唇を弓なりにしてくすりと笑った。
「羽月、おはよう。今日はいつもより洗濯物が多かったんだ」
「相変わらず主夫してるねえ。良いお嫁さんになれるよ」
「そりゃどうも」
利人は肩を竦めて越智羽月 の隣に立ちつり革に掴まる。かつて同じ中学校に通っていた羽月とは地元が同じで、一時期疎遠になっていたものの大学で再会してからはまたよく話すようになった。
学科は異なるが同じ文学部でお互い浪人していないから学年も同じ。乗り降りする駅も同じとくれば遭遇率は必然的に高くなる。まさにこれから受ける講義も同じだ。
「川角先生のレポートやった? あれ来週提出でしょ」
「ん、もう出した。教えてくれた本すげえ参考になったわ、ありがとな」
「はっや。もう終わったの? 相変わらず仕事が早いというか真面目というか」
はあ、と羽月は溜息を吐く。今月三つレポート溜まってるんだよ、私は四つよと話していると電車も目的の駅へ辿り着く。
利人の通う大学は最寄駅から徒歩五分の距離に建っている比較的綺麗で程々に広い敷地面積を持つ学校だ。『西陵 大学』と刻まれた正門を抜けると煉瓦の埋められた広い通りが真っ直ぐと伸び、両側に植えられた木々が涼やかな影を落とす。
ざあ、と強い風が木の葉を揺らせば青々とした匂いに潮の香りが混ざり鼻腔を擽る。新潟の海岸沿いに位置するこの大学は高台にあるが、すぐ裏手には日本海が広がっていた。家もまた海が近い利人にとってそれは特別なものではなく、海と潮の香りは利人にとってとても身近で日常の一部であった。
昨晩のバイトが響いているのだろう、利人は重くなる瞼を擦って講義に望んだ。欠伸を噛み殺してノートを取り、終了のチャイムが鳴るとほっと背凭れに身体を預ける。
「あんた昨日何時に寝たの?」
「一時位……? それでも四時間は寝たから寝れたほう」
羽月はやれやれと眉を下げ、机の上に置かれた利人の出席カードを取り上げる。
「親孝行は偉いけど程々にしなさいね。あんたが倒れでもして伊里乃ちゃんが悲しむのは嫌ですからね。これ、出しといてあげる」
「あー、悪い。じゃ俺後ろから行くわ」
貸しね、とにやりと笑って羽月は席を立つ。この講義は出席人数が多く、提出して講義室を出て行くには時間が掛かる為羽月なりの細やかな気配りだった。利人は羽月の言葉に甘え、席から近い講義室の後ろの扉から外へ出る。
羽月は時折頑張り過ぎる節のある利人をさり気なく気遣ってくれる心優しい友人だ。姉御肌でさばさばしている羽月は付き合い易く、女友達の少ない利人にとって珍しく気の置けない存在とも言える。
どこに行こうかと眠れる場所を探すが昼食時の今はどこも混んでいて賑やかだろう。喧噪を避けながら歩いていると、足は必然的に文学部棟に向かっていた。
文学部棟の入り口は十年程前に新しく建てられた際そちらに移動した為比較的綺麗で機能的だ。けれど裏側には初代の古い旧棟がある。
利人は自動ドアを抜けて文学部棟の中へ入ると、階段を上がる事もなく奥へと進む。そうしてどこにも立ち入らず棟を出ると外付けの廊下で繋がれた旧棟の中へと足を踏み入れた。
(『教授』は自分の部屋だろうし、多分誰もいないよな)
明るかった新棟とは打って変わり薄暗い室内はいつもの事だ。殆どの講義が新棟で行われ教授達の研究室も同様に移っている為旧棟の人の出入りは少ない。
改築や増築で建物が新しくなっていく中、創立当初からそのままの姿で残っている建物はごく僅かだ。規模が小さい事もあり今は残してあるものの、いつ建て壊しになってもおかしくはない。
旧棟での役割は他でカバー出来る。耐震強度も弱い為もしもの事があった場合一番に落ちるのはここだとも言われている。ここを潰した方がもっと有効的にこの土地を使える事も事実。
(なくなったら寂しいと感じるのは皆同じなんだろうけど)
ここを残したいと主張する人々の心だけで旧棟は存在していると言っても過言ではない。
利人もまたこのまま残って欲しいと思う人間の一人ではある。けれど入学して僅か一年と少し。この建物に出入りするようになってからはもっと短い。
(もし建て壊しが決まったら、俺は黙ってそれを受け入れるんだろう)
一階の一番奥まで辿り着くと利人は足を止める。
目の前の扉に鍵が掛かっている事を確認すると、しゃがんで扉近くにある割れた壁の中に手を入れた。
指先に硬い感触。穴から引き抜いた利人の手には錆びた鍵が握られている。慣れた手つきで錠を解き扉を開けると、それまで嗅覚を支配していた旧棟の古い匂いに加えて独特な匂いが利人を包み込んだ。
しゃら、とカーテンを開けると暗かった室内が明るくなる。八畳程の部屋の中には本棚が並びびっしりと古ぼけた書物が並んでいる。
「よっ」
窓を開け風を通す。利人は空気の通るこの瞬間が特に好きだった。
古い本が醸し出す独特な匂いはすべての窓を開け放ったとしても消える事はない。程よく空気を入れ替えたこの空間は利人にとって居心地良く、本棚を眺め、その匂いに触れていると安らかな気持ちになれた。
そこは今では殆ど使う者のいない旧文学部資料室だ。旧資料室と呼ばれるそこは実質倉庫代わりにもなっている為奥には埃の被った段ボール箱や机が積み重なっている。
それでも名称の通り資料室に見えるのは過半数を占める本棚のお蔭だろう。そこには新資料室に連れて行って貰えなかった不要の本や去って行った教授達の置き土産であろう所有者不明の本が殆ど。――だと思われがちだが、実際の所そこに収まっている本の半分以上はとある『教授』の所有物だ。
「また増えてる」
何気なく本棚を眺めて、ぽつりと呟く。
私有化はいけないんでしょう。良いんですか。以前そう尋ねたら、彼はこう答えた。
――バレなきゃいいんだよ。
旧棟を管理している職員には暗黙の了解を得ている上でこれを言うのだからたちが悪い。
「……ふぁ、」
口に手を当て欠伸を噛み殺す。
まだ腹はそんなに空いていない。
次に入っている講義まで時間はまだたっぷりとある。ならば昼食の前に少し眠ろうと利人は破れた革張りのソファに身体を沈めた。
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