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03 旧文の変人〈1〉

 深い眠りから浮上してきた頃、微睡む意識の中で紙を捲る音が聞こえ起き上がるより先にその存在に気づいた。 「あ、起きた」  目を瞬かせると、まず最初に視界が斜めになっている事に気づいた。そして視線の先には隣に座る男の皺の寄った手と黄ばんだ本。そして頬に感触。  瞬時に状況を把握した利人はさっと青ざめた。 「うわっ」 「ええー、『うわ』だなんて傷つくんだけど」  男二人が座るには決して広くない二人掛けのソファの端までざざっと遠ざかると、隣に座る男は色素の薄い瞳を困ったように細めた。 「おはよう雀谷君。よく眠れた?」 「あ、はい。とても。……じゃなくて、すみません! 俺、白岡教授に寄り……寄り掛かっ……」 「いいよ、気にしないで。どうせ僕らしかいないんだし」  くすくすと笑って彼は開いていた本に紐を挟んで閉じる。  気にしないでと言うが、人――それも『彼』の肩に頭を預けて眠っていただなんて恥ずかしいやら恐ろしいやらで利人はいっそ消えたい気分だった。  白岡霞(しらおか かすみ)。色素の薄い、茶色がかった鼠色の柔らかい髪と瞳を持った彼は利人の所属する日本思想史研究室の教授だ。彼は唯一この旧文学棟に残った人間であり、鍵を任されたのを良い事に旧資料室を私有化して自分の書庫代わりにしている。  彼のゼミに所属しているのは二年生の利人の他には四年生が辛うじて二人いるだけの言わば不人気な研究室だ。  そんな暗い古ぼけた旧棟にひとり身を置く彼の事を学生達がひっそりと『旧文の変人』などと称している事を果たして本人は知っているのかいないのか。 『変人』と言うと聞こえは悪いが、それでも変わり者な事に違いはないだろう。一年の時のオムニバス講義で彼の授業を受けた時には大しておかしいとは思わなかったが、春に所属してからのこの数か月間で平凡とは言い難い彼の異質さは嫌と言う程思い知った。  高身長で鼻筋の通っている彼は若い頃はさぞかしモテただろうと言われる程の容姿だ。今でも壮年好きの女性の間ではひっそりと人気があるようだが、黙ってじっとしていれば紳士な男で済むのに勿体ないと利人は思った。 「雀谷君、今日のお弁当は何つくったの?」 「ええと、卵焼きと昨日の残りの肉じゃがと青菜とかです」  膝の上で弁当の風呂敷を解きながらそう答えると、白岡は利人の膝の上を覗き込んで楽しそうに微笑む。 「いいね、相変わらず美味しそうだ。卵焼き頂戴よ」 「そんな事言って、いつも勝手に摘まむのはどこのどなたですか。教授の奥さんの程美味しくはないでしょうに」 「そりゃうちの奥さんの料理は絶品だけど、僕は雀谷君のつくったご飯も好きだよ?」  白岡はそう言うと弁当箱に綺麗に収まった黄色い塊を指先でひょいと摘みぱくりと食べてしまう。 「うん、今日も美味しいね」 「それはどうもお粗末様でした」  利人ははあと呆れながら自分がつくった弁当をつつく。  白岡は飄々としていて掴みどころがない。自由人だ。基本的に仕事はきちんと熟していると思うが、たまに奇天烈な行動に出る節がある。  ある時は遠方でやっている企画展が今日までだとかで突然講義を休講にした。  ある時は彼の応援しているサッカーチームの試合が授業に重なり講義室での上映会となった。  ある時は愛妻家を自称する彼が食堂で学生達の恋愛相談を受けていた。まあそれは、結局殆ど惚気話を聞かされただけだったらしいが。 (……変人だな)  文学部の学生の間では有名な噂話だ。何でこの人の研究室に入ってしまったんだろう、などと考えてはいけない。 「雀谷君、今夜も予定空けているね?」  ぴたり、箸を持つ手が止まる。 「はい」  白岡は目を細め、満足そうに口元に皺を刻む。 「いつもの時間になったら僕の部屋に来なさい。今日は少し遠くの古書店まで行こうと思っているんだ」  ぎしりとソファが軋み白岡が立ち上がる。  はい、と答える利人の瞳は好奇心と戸惑いとが複雑に折り重なっていた。

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