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04 旧文の変人〈2〉

 毎週水曜日の放課後は白岡に付き合う日と決まっている。  最後の講義を終え時刻は六時過ぎ。通い慣れた旧文学部棟の白岡研究室へ行くと、雑用を手伝わされた後彼の車に乗ってどんどん暗くなっていく空の下一件の古書店に辿り着いた。 「やあ先生、こないだ言ってた本取ってあるよ」 「こんばんは、店長。お邪魔します」  本棚の間の細い廊下の奥から、白い髭を蓄えた老人が顔を出す。白岡に続いて店内に足を踏み込んだ利人は、老人に会釈した後狭い店内を埋め尽くす程の本の山につい視線を奪われた。  白岡は古書店や企画展を巡るのが好きらしく、水曜日にはこうして色んな場所に連れて行かれる。 「雀谷君、ちょっと店長と奥で話してくるから自由に見ていて。この間来た時はあっちの棚に思想史関連の本があったけど今はどうかな。あ、この本はお薦め。この人の本は読みやすいし面白い」  何気なく本棚に目をやった白岡が指を掛けて抜き出したそれには『日本の墓考古学』と記されている。タイトルから見て取れるようにそれは考古学の本であって、近い分野とはいえ日本思想史を教える教授が薦めるべきものではない。けれど専門外の本を薦めるのは白岡にはよくある事だった。  日本の宗教観に惹かれてこの研究室への配属を決めた利人だが、元々それに限定して大学に入った訳ではない。民俗学や考古学、歴史学に言語学。そういった類の文学に広く興味を持つ利人にとって白岡の行動は決して困ったものではない。むしろ良い刺激になっていた。  旧資料室に置かれている本だってそうだ。白岡の本を読む事を許されている利人は度々その蔵書を手に取るが、そこに並んでいるものは思想史に関するものだけではない。勿論思想史の本だけでも図書館にはないような興味深いものが揃っているが、他の分野の本もまた珍しいものばかりで利人の好奇心を掻き立てた。  大学一年の後期授業で教壇に立った白岡が言い放った言葉を利人は今でも覚えている。 『諸君。大学の四年間はあっという間だ。よく学び、よく遊びなさい。君達は直に専攻のコースへと進む事になるが、何も卒業までそれに縛られる事はない。コースを変えたっていいだろう。だから広く視野を持ち多くを学びなさい』  利人はその言葉に少なからず衝撃を受けた。悩んで決めるのだから配属されたら全力で取り組めと言われるのなら分かる。それに近い事を誰かも言っていた。特定の分野の研究者なのだからその分野のみを教えるのが本来あるべき姿でありそれが普通なのだ。  けれど白岡はよそ見を許す。普通自分の研究室に入った学生が他分野に強く惹かれていたら良く思わないものだが、白岡は自らその可能性を引き出させるところがあった。 「雀谷君お待たせ。良い掘り出し物はあった?」 「はい。これを買って行こうかと……教授は今日も豊作のようで何よりです」  利人の手には白岡に薦められた本と思想史の本が二冊。そして白岡の手には既に本がぎっしりと詰まった紙袋が下げられている。 「いやあ、面白い文献が手に入ったんだよ! 今度雀谷君にも紹介してあげよう。ひとまずはご飯だ」  白岡は上機嫌で車の後部座席に荷物を置き利人も助手席へ座る。夕食が遅くなる事には慣れているが、それでもお腹はぺこぺこだ。車内に表示された時計はもうすぐ八時を示している。  言動が軽くルーズだが常識に囚われない変わった人間。そんな彼の研究室に入って後悔した事もあったが、今では結果的により多くの学問に触れ充実した時間を過ごせている。 「何食べようか、君」  静かにスイッチが切り替わる。暗い夜空の下で光るネオンを背後に白岡のさっきまでとは異なる瞳が利人を流し見る。  艶を含んだその瞳に、利人は静かにその意味を読み取った。 「敢えて言うならパスタの気分ですが」 「決まりだね。白ワインの美味しい店がある」  静かに走り出した車は滑らかに夜の街を走り抜ける。  入った店はドレスコードのあるような高級店という程ではないが大学生が気軽に入れる雰囲気でもない落ち着いたフレンチの店だ。 「いつも言っていますが男二人で食べるのにこんな小奇麗なところでなくても」 「まあまあ、たまには良いじゃない」  はいかんぱーい、とグラスを合わし渋々口に運んだワインは飲み易く白岡の言う通り絶品だった。  酒は飲めない事はないが、決して得意な方ではない。法律に従い二十歳になった春先まで酒を飲んだ事のない利人はまだ酒の味に慣れていない。だからこういう時、白岡はアルコールの弱い酒など利人が口にし易いものを一杯だけ頼む。  車を運転する白岡が飲むのは水やノンアルコールビールが精々だ。いつも奢ってもらっている上に自分一人だけ飲むなんて忍びない。最初の頃はそう思っていたが、白岡は進んで利人に酒を飲ませたがった。 『社会に出たら付き合いで飲まされるんだから、今の内に慣れておくのに越した事はないよ』  久々に出来た教え子だからね、美味しいもの沢山与えたくなっちゃうんだ。そう彼は言っていたが、実際の所助かってもいたから結局彼に勧められるがまま酒を飲んでいる。

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