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19 白岡夕の日常〈1〉

 しゅる、しゅるり。  ぱりっとノリの効いたシャツに袖を通し小さなボタンを留めていく。  髪を指で梳き寝癖を撫でつける。鏡の中の自分を見て乱れがない事を確認すると、よしと心の中で呟いて部屋を出た。 「坊ちゃん、おはようございます。朝食の準備出来てますよ」  夕が居間へ向かうと、割烹着を来た中年の女性がキッチンの暖簾を押し上げて顔を見せる。おはようございますと微笑むと、彼女もまた顔に皺を刻んで微笑み暖簾の奥へと消えた。  温かなご飯やお味噌汁がすぐに運ばれ、夕はいつものように黙々と食事をする。古く年季の入った広いテーブルの上に並べられた食事は一膳のみ。  この光景は何も珍しい事ではなく、夕の場合家族と食事をするよりもこうしてひとりで食べる時の方が恐らく多いだろう。  母は華道の師範をしている。教室だけでなく飾花や講師の依頼も多く、それは国内のみならず海外までと活動範囲は広い。その為家政婦を雇っているのだが、今日も母は海外出張中で不在だ。  そして父は大学教授。生活リズムが合わない為あまり顔を見ないし、家の中にいても書斎に篭っている事が多い為いてもいなくても大して変わらない。小さい頃はそれなりに一緒に遊んだ事もあっただろうが、二人でじっくり話をしたりどこかへ出掛けるなんて事はもう暫くない。きっと子供に興味がないのだろうが、夕も夕で父親の事はどうでも良い。だから放任で都合が良いとありがたい位だ。  食事を終えると学校へ向かう。田舎道を歩き、バスを乗り継いで一時間程掛かった場所に夕の通う附属中学校が建っている。  独特な渋みの緑である松葉色の制服は、背姿だけでも地元の人間が見ればすぐにどこのものか分かる。男子は灰色のセンターラインの入った学ランに女子は学年別に色の違うネクタイを締めたブレザー。夏服も松葉色がベースになっており、男女共に薄い生地のスラックスやスカートに上は薄っすらと緑がかった白緑のシャツだけの軽やかな格好をしている。  そうして夏の格好をした生徒達が次々と賑やかに校門を潜り、夕もまたそのうちの一人となって学校の中へと吸い込まれていく。 「お、おはよう。白岡君」 「おはよう。小林さん、髪切ったんだ? 可愛いね」  頬を赤らめた女子に声を掛けられ、にこりと笑って返す。途端にますます赤くなった彼女を隣にいる友人が小突き、抑え切れていない黄色い声を密かに上げているのを視界の隅で感じ取る。  教室に着くと、クラスメイトと挨拶を交わし自分の席へ着く。すると先程のやりとりを見ていたらしい男子がやって来て、元生徒会長殿はおモテになりますなあなどと冗談めかして話し掛けてくる。 (馴れ馴れしいな)  クラスのムードメーカー的存在であるその男子は、親しげに夕の肩に腕を回し調子の良い事をぺらぺらと捲し立てる。自然と取り巻きの男子達の輪の中心となっている夕は、表面上は親しく話しているように見えるが心の内では至極冷淡だった。馴れ馴れしく触れられるのも顔を近づけられるのも身の毛がよだつ。  ごく自然に肩に回された腕を払い、ちょっと用事と言って立ち上がる。ああ、気持ち悪かった――そんな感情を億尾にも出さない顔で振り返ると、後ろの方の席に座る男子と目が合う。 (鴉取(あとり)――)  今のやり取りを見ていたのか、彼はじっと夕を見ていた。心の内を見透かすかのようなその鋭い瞳は、彼を呼ぶ声によって対象物を変える。  それまで温度の低かった彼の周りの空気が一転して上昇したようだった。感情のなかったその顔には優しげな笑みが刻まれ、彼は足早に席を立つ。  鴉取藍(あとり あい)。親の転勤により春に東京からやって来た転校生だ。目鼻立ちが良く当初は持てはやされていたが、本人はあまり愛想がなく素っ気無い為自然と彼に話し掛ける人間は減っていった。孤立しているというより、ひとりでいる方が好きなのだろう。彼はいつも寝ているか本を読むかしていて自ら進んで友人をつくろうとしない。  そんな一匹狼タイプの彼が唯一全面的に心を開いているのは今まさに廊下から顔を出している藍と同じ顔の少年、鴉取(こう)。藍の双子の兄だ。  見た目こそそっくりな二人だが性格は全く異なり、兄の方は社交的で協調性もありすっかりクラスに溶け込んでいるようだ。その為、黙っていない限りどちらがどちらか見分けはつけ易い。  藍とは当然数える程しか話した事はなく、ただのクラスメイトのひとりでしかない。けれど空気も同然な彼は、どこかミステリアスな雰囲気を纏っていて妙に際立って見えた。  彼の周りだけ空気が違っているかのような。都会からの転校生という付加価値だけではなく、彼の纏う独特な雰囲気がそう思わせる。  そんな彼に向けられた視線の意味を、夕は何となく気づいていた。  夕はクラスメイトの前でも教員の前でも、隙なく社交的で友好的な優等生を演じてきた。それはごく自然でこの自分が本当の自分だときっと誰もが信じて疑わない。  けれど、夕と藍は少し似ている。だからそれが嘘だときっと藍は気づいている。  廊下で話す双子の隣を夕は無言で通り過ぎる。藍とは友人ではないし、それを装う必要もない。藍が悪戯に夕の本性を暴く事も、きっとない。藍が僅かでも夕の本性を見抜いているように、夕もまた藍がそういった事に興味のある人間だとは思えなかった。

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