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37 溢れる気持ち
「利人さん」
だから何、と利人の睫毛が揺れる。
赤褐色の瞳がこちらを向いた。
そこに影を落とす。やっぱり利人の唇は温かく、そして柔らかかった。
唇を離すと、利人はぱちくりと目を瞬かせきょとんと目を丸くする。
いざ利人への感情を自覚するとその気持ちは堰き止められていた枷が突然なくなったかのように溢れて止まらなかった。
完全にブレーキを失っていたのだ。
「好きなんです」
溢れ出る気持ちは、そのまま口から零れ出る。
けれど口に出してみると、振り切って高揚していた感情はみるみるうちに落ち着きを取り戻し夕ははっと我に返った。
(俺、今、何言った)
しまった、と夕は青ざめた。正直利人があまりにもえろいものだから勃起し掛けていたがそれも萎える程に気分は急降下した。
若気の至りにも程がある。しかも場所も状況も悪い。こんな告白があるかと混乱していると利人の口が開いた。
「本当に?」
驚いたのだろう。それはそうだろう。利人はぽかんとしていて、夕は覚悟を決めると場所を変えましょうと言って休憩所の裏手へ回った。あのまま事を進めるのは堪えられなかったのだ。
そこは建物を覆うように木が取り囲んでいて、のんびりとした蝉の鳴き声が風と共に流れてくる。
「さっきの話ですけど。俺は利人さんが好きです」
仕切り直してそう言うと、利人は顔を伏せ口元を手で押さえた。
悩んでいるのか。そう思ったがよく見ると利人の肩は微かに震えている。
「……え? 利人さん、泣いてる?」
「まだ泣いてない」
どういう事だと恐る恐る顔を覗くと、手の隙間から見えた利人の口元は笑っていた。
(これは、まさか)
期待に胸が高まった。どきどきと心臓が激しく鼓動する。
「利人さん」
「夕……」
利人は目を細め蕩けるような笑顔を浮かべた。
「……ッ利人さん!」
ぎゅっと思い切り抱き締める。幸せだった。今までの経験を踏まえても、このパターンは間違いないと思った。
ただ見落としがあったとすれば、それは相手が利人だという事だ。
「俺も夕が好きだよ。お前の兄みたいな存在になれたらいいなって思ってたんだ」
「……兄?」
ぴたりと止まる。聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
身体が離れると、利人はうんと頷いた。
「でも本当に嬉しいよ。お前には嫌われているんだろうなと思ってたから……夢みたいだ」
こっちこそ夢みたいだと思った。
(あの流れでこう来るか?)
利人は本気だ。誤魔化している訳ではない。
本気で、ただの『好き』だと思っている。
「待って、利人さん。他の可能性は考えない訳?」
「他って?」
あ、本当に泣きそうになってる。瞳が潤んでいる利人を見て夕は憎むに憎めなくてきゅっと唇を噛んだ。
「さっき俺あんたにキスしたんだけど。そういう『好き』だとは思わなかった?」
利人はそういえばといった様子であっと声を上げるが、思わないよ、と言い切った。
「そういう気分になっちゃったって奴だろ? 大丈夫、気にしてないから」
はは、と利人は本当に何でもなさそうに笑う。
これはたちが悪い。鈍感な上に変なところで大人だ。
(これは、酷いだろ)
夕はげんなりと肩を落とした。
まだ猶予が出来た事に安心したのが半分、先行きが不安になったのが半分。
(でも、まあ。これで良かったのかもしれないな)
夕には父という敵もいる。
二人の関係性を思うと複雑だが、そもそも彼は利人の事をどう思っているのか。
何にせよ、碌でもないのは確かだろう。
「そういえば周藤さんには本当に何もされてないんですよね。セクハラとか」
「あはは、そんなのされる訳ないだろー。俺男だよ?」
危機感が皆無なのは問題かもしれない。
(……そうだ)
悪ふざけを思いついたように、夕はぺろりと上唇を舐めた。
「利人さん、そのままじっとしてください」
え? と利人が首を傾げる。
遠くに見える砂浜では家に帰る為に引き上げる人が増えていた。
***
利人のバイトの都合もありバーベキューは日が落ちる前に開始された。
「利人さん、こっちの肉焼けましたよ」
「おお、ありがとう。お前も沢山食べろよ」
はい、と夕が笑顔で答え二人は楽しそうに会話を弾ませる。
その様子は休憩所に行く前と比べて随分と親しげだ。
そんな二人の様子を年の離れた壮年二人が遠くから見守っている。
「周藤君、あれどう思う?」
「どうやら想定以上の成果があったみたいですね。若者怖いわー。夕なんて超ピンク。一線越えててもおかしくはないですね」
周藤の視線の先では夕が利人に何事か耳打ちし、利人が顔を赤くしているのが見えた。利人の隣をぴったりとキープしている夕に、普通にしているように見えて挙動不審な利人。
周藤程察する能力に長けていない人間でも二人の間に何かあった事位容易に感じ取れる。
「だよねえ。利人くんの首筋のあれは周藤君?」
「いいえ、俺は何もしてませんよ」
暗くなってきた為よく見ないと気づかないが、利人の首筋、フードに隠れるか隠れないかの場所には赤い痕がある。
「じゃあ牽制か」
夕も大きくなったなあ、と白岡はほのぼのとキャベツをもしゃもしゃと頬張る。
「先生方何の話してるんですかー? 俺も混ぜてくださいよ」
「子供の成長は早いって話かな? いいぞいいぞー、じゃあ陽葵君の恋バナを聞かせてもらおうか」
紙皿とコップを片手にやって来た陽葵に周藤は肩を叩いて迎え入れる。
「周藤先生ー、お手柔らかにお願いしますね。そいつこの前フラれたばかりなんで。交際期間一週間ですよ一週間」
「羽月ちゃんがお手柔らかにしてください」
少し離れた場所に座っている羽月はべっと舌を出す。
羽月の隣に座っている伊里乃がもぐもぐと食べていると、見慣れた足元が視界に入り顔を上げた。
「伊里乃、ちゃんと食べてるか? ほら、野菜も食べな」
「……ん、ありがと」
ぽいぽいと自分の皿から野菜や肉を移す利人を見上げた伊里乃は、ちらりと視線をずらす。
そこには夕が立っていて、ぱちりと目が合うと夕は人当りの良い笑みを浮かべて軽く会釈をした。
(白々しい……)
伊里乃は視線を利人に戻し、口を開く。
「りー兄、夕君と仲良いの?」
「え?」
利人はうーんと首を捻る。けれどその頬は緩んでいる。
「そうだといいな」
へへ、と気恥ずかしそうに利人は笑う。
伊里乃はふうん、と呟いてよく炒められたピーマンを齧る。苦い。
(りー兄が元気なら、いっか)
伊里乃がさり気なく利人を引き止めると利人を真ん中にして夕が利人の隣に立つ。
利人が動いても二人が傍にいる事には変わらず、それを近くで見ていた羽月は「モテモテだなあ」と呟きながらのんびりコップを傾けるのであった。
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