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62 穏やかな日々、そして

「こんにちは。時間丁度ですね」 「お、おう。遅れなくて良かった。今日は涼しいな」  家庭教師の日、白岡家を訪れると夕が出迎えた。  どぎまぎしてしまう利人に対し夕は何事もなかったかのように落ち着いている。 「あ、今日椿さんは?」 「仕事です。父も軽井沢からまだ帰ってませんから俺達だけですよ」 「へえ、そうなんだ」  俺達だけ、という言葉に緊張する。それを誤魔化すようにお邪魔しますと言って靴を脱ぎ家に上がるが、いつもはすぐ部屋へと案内してくれる夕は動かない。 「どうした?」 「利人さん……」  するりと手首を夕の手が覆う。何だろうと自分の手を見下ろして、そうして顔を上げ間近に迫る夕の顔にぎくりとする。 「ゆっ、」  無意識に後ずさった足は段差を踏み外す。がくんと身体の重心が後ろへずれて視界が回った。 「あっ、ぶないなあ」  けれど間一髪夕に腕を引かれ玄関に背中を打たずに済んだ。強く腕を引かれた為に夕に抱き締められる形になっていて、夕の胸に顔を埋めながら利人はばくばくと激しく動く心臓を落ち着かせる。 「ご、ごめん。助かった」 「怪我してないなら良いですけど」  ぐい、と肩を掴まれて身体が離れる。  その事にほっとしつつも、何だかもやもやと不思議な感じだった。 「何もしませんから、そんな構えないでください。わざと仕掛けた俺も悪かったですけど」 「え……」  夕は眉を下げ、気まずそうに視線を逸らす。 「確かに意識してくれとは言いましたけど、怖がられるのは傷つくっていうか」 「そ、そんなつもりじゃ」 「まあでも、今まで散々アピールしても総スルーだった俺からしたらやっとかって感じなんですけどね」  へ、と間の抜けた声を出すと夕は唇を弓なりに歪めてふふんと笑う。 「今まで通り普通にしてて良いんですよ。何も構える必要はないんです。急に襲ったりしませんから」 「……分かった」  利人は少し頬を赤らめてごほんと咳払いをする。 「一週間二週間で気持ちは変わらないと思うけど」 「分かってます。長期戦になる事は想定の範囲内ですから」 「お前がいくら待ったって、何も変わらないかもしれないぞ」 「そうですね。でも、変わらないとも限らない。俺結構しぶといんですよ」 「……強気」  くすりと思わず笑みが零れる。 「お前、案外重いんだな」 「えっ」  利人はさっと青ざめる夕を見上げて堪え切れずにまた笑う。 「お、俺重いですか」 「何となく? ほら、さっさと勉強始めるぞ」  利人の照れ隠しの言葉を真剣に受け止める夕は戸惑うも、利人が笑えば夕もふっと口元を綻ばせる。いつの間にかすっかり緊張は解れていた。  それからはこれまで通り週に一度勉強を教えに行っているが特別何がある訳でもない。真面目に勉強して他愛もない話をして笑う。  これまでと同じ、いつものように夕と接していた。  ただ時折胸の奥がこそばゆい。    ***        そうして十月、大学の長期休暇が明け後期の授業が始まった。 「やあ、久し振りだね。雀谷君」 「ご無沙汰しています、白岡教授」  白岡に会うのも一か月振り、いやそれ以上だ。  はいお土産、と渡された小さな包みには林檎せんべいと書かれている。 「そういえば避暑に行かれてたんでしたっけ」 「いやあ、もう良かったよ! 本当! 素晴らしく快適だった」  両手を広げて満足気な表情を浮かべる白岡に利人は思わずくすりと笑う。白岡教授だなあ、と実感する。 「何か手伝う事はありますか?」 「じゃあ、コピーと運ぶの手伝ってもらおうかな。助かるよ」  量が多くてね、と言われ出来上がった資料は確かにずしりと重い。  白岡の後ろを歩き講義室を目指すと、渡り廊下に出た所で一陣の風が吹いた。 「うわっ」  資料を守ろうとするも一瞬遅く、ばらばらと紙が舞う。  それを慌てて掴もうとして舞う紙の隙間から見えたのは、傾ぐ白岡の肩。  それはまるでスローモーションのようだった。  突風が過ぎ去り紙ははらはらと地面に落ちる。  周囲から上がる悲鳴。  あまりに突然の事に一瞬声が出なかった。 「白岡教授‼」  白岡が倒れた。  その口元からは血が零れ、落ちた紙の端がじわりと赤く染まった。

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