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第2部 めぐる ~プロローグ/月に叢雲~

 男を好きになったのなんて一時の過ちだ。  大丈夫、もうそんな間違いは犯さない。うまくやれるさ。これまでだって、そうやって立ち回って来たじゃないか。  夕は失恋の痛手をそう自分に言い聞かせる事で乗り越えようとしていた。  当然と言えば当然だがクラスメイトの男達を見ても何も感じない。女子はちょっと綺麗な子もいた。スカートの裾からちらりと覗く太腿や小さくて柔らかそうな身体を見ていると少なからず欲情もする。  ほら、自分はいたって普通の男なのだ。うっかり手遅れになんてならなくて良かったじゃないか。  私の事好き? と媚びた声で尋ねてくる女に好きだよと囁く。可愛いし、柔らかくて気持ち良い。何より、好きと言ってくれる。  そう、これだ。これが本来の付き合い方で、自分が求めていたものだ。  なのに何故だろう。満たされない。どんなに愛を囁かれても注がれた水は底のないグラスの中を流れるだけで何も溜まらない。愛の言葉を口にしてもただ空々しいだけ。  どうして、彼の事が忘れられない。  好きだと甘い声で言われる度に複雑な気持ちになるのは、本当にその言葉が欲しい相手にだけはそれを望めなかったからだ。  失恋は時間が忘れさせてくれると言う。  あれから何か月も経った。まだこの傷は癒えない。慰めを求めても自分がどれほど彼を欲していたか現実を突き付けられるだけだ。  生まれて初めて、本気で誰かを好きになったのだ。  そもそも簡単に忘れられる訳がなかった。  何年かしたらこの感情も枯れるだろうか。  他の誰かを好きになれるだろうか。  もしもの話だ。  いつか彼に会える日が来たら自分はどうするのだろう。  想いを寄せていたのは過去のものだと割り切って普通に笑って接せるだろうか。  それとも、また彼に恋してしまうのだろうか。  夏の空で弾けた花火のように、彼への恋情をぶつけて咲かせた花のように、また強く彼に惹かれてしまうのだろうか。          ***  月は雲に隠れ闇はどんどん深まっていく。街灯から離れてしまえばそこはもう真っ暗闇だ。  覆い茂る草木を掻き分け四方に懐中電灯の光を向ける。葉や跳ね返った枝が顔や腕に当たり傷をつくるも気にしている暇などない。 「夕君!」 「沙桃(さと)さん、利人さんは」  向かいから金髪の青年が駆け寄ってくる。沙桃は眉を寄せてふるふると首を横に振った。 「いっくんからも特に情報は来てない。本格的に冷えてきたし早く見つけないと危ないよ」  ざわざわと焦りが生まれる。春とはいえ夜の山はぐっと気温が下がる。夕は拳をきつく握り締め眉を顰めた。 「僕、麓の交番に行ってこようと思う。夕君も来るかい?」  沙桃の提案に夕はいいえと首を横に振る。 「俺は利人さんを探します」 「そう、分かった。でもくれぐれも足元には気を付けて、危険な場所には近づかないで。君にまで何かあったら僕が怒られちゃう」 「樹さんにですか」 「それもあるかもだけど、リイにだよ。きっと泣きながら怒るね」 「そうですか?」  リイ、とは利人の事だ。沙桃は彼をその愛称で呼ぶ。  柔らかく微笑む沙桃に夕は苦笑いを浮かべて分かりましたと頷いた。  利人が泣く姿は見たくない。  でも、会えなければ意味がない。時間が経てば経つ程不安に駆られる。もしも、なんてあってはならないのだ。 「利人さん! どこですか、利人さん!」  声を張らして何度も叫ぶ。名前を呼ぶ。  手の中の革紐を握り締めて探し続ける。  このまま会えなくなるのは絶対に嫌だ。  脳裏を過ぎるのは傷ついた利人の顔。  そんな顔をさせたい訳じゃないのに、どうしてうまく出来ない。 「利人さん、お願いです。出てきて」  謝りたい。  謝って、それから、思いきり抱き締めたい。  彼の温かい体温を感じたい。 (父さん)  お願いだから、まだそっちには連れて行かないでくれ。  大事な人なんだ。  あの人だけは、俺から奪わないで。  失いたくない。  祈りながら、縋りながら、雲間から月明かりが差し込む中名前を叫んだ。

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