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08 カレイドスコープ〈3〉

 霞はそれからすぐに軽井沢へ向かった。  何十年と来ていないその地に懐かしさを覚える。実家から借りた別荘はきちんと手入れがされていて敷地の中も綺麗だ。 「この辺だったかと思ったんだけどなあ」  さくさくと草を掻き分け道なき道を進んでいると、ひょっこりと河原に出て目を輝かせる。 「ああ、ここだ。分からないけど、多分ここだ」  あまり覚えていないが子供が行ける範囲の場所となるとこの場所で間違いはなさそうだ。  太樹と初めて出会った場所。目を閉じると、さらさらと心地の良い水の音が聞こえる。  霞はそっと目蓋を持ち上げると、川目掛けて腕を振り上げた。  そして手の中から離れた小さな破片は七色に光りながら川の中へぽちゃんと落ちる。  ここへは別れを告げに来た。  しがみついているだけだった太樹への恋心に。 「これまで悪かったな、太樹」  恋をした。けれど、それももう過去の事だ。 忘れてはいけない、他の誰かを好きになってはいけない。そんな気持ちから自分が愛しているのは太樹だけだと思い込んでいた。  もうその気持ちは変容し、純粋に相手を想う気持ちさえ思い出せなくなっていたのに。  後悔は消えないし、許されたとも思っていない。太樹の事を忘れようとしている訳でもない。  ただ気持ちの整理をしようと思った。  それは霞にとって大きな変化だ。これで良かったのかまだ気持ちは落ち着いていないけれど、それでも少しほっとして目頭がじわりと熱くなった。    ***           その日の朝はとても身体が軽くて目も冴えていた。  忙しい合間を縫って度々訪れる岳嗣はその日も白岡家に滞在していて、霞は「ねえ周藤君」と傍らに寝ている周藤を起こして話しかける。 「僕を大学へ連れて行ってよ」  時刻は五時を越えた頃。夜明けが近いとはいえまだまだ外は暗いし寒い。岳嗣は一瞬眉を顰めたが、分かりましたと頷く。声は擦れてゆっくりでないと紡げない。もう殆ど歩く事も出来なくなっていた。  車椅子に乗り玄関を出る時、起きて来た椿に見送られる。 「行ってらっしゃい」 「うん。行ってきます」  優しく微笑む椿に霞もまた目を細める。コートやマフラーで防寒していても冬の夜は凍り付くように寒い。 白い息を吐きながら岳嗣の車に乗せられ西陵大学へ着くと、雪で足場の悪い中車椅子を引いてもらいながら旧文学部棟の前に着いた。 「霞さん、あまり長居は」 「分かってるよ。一目ここを見ておきたかったんだ」  自分の城のように過ごしたこの校舎は間もなく建て替えとなる。気に入っていた建物だったけれど、もうここも変わる時だ。  思い出はすべて自分の胸に仕舞ってある。 「そういえば、霞さんが前に言ってたものが見つかったんです」  岳嗣はそう言うと懐から何やら折り畳まれた紙切れを取り出す。  目の前で開かれたそれを見て、霞は目を見張らせて震えながら手を伸ばした。 「ああ、太樹だ」  古ぼけたその写真には霞と岳嗣、そして太樹の姿が写っている。皆、無邪気に笑っていた。 「太樹だ……」  やっと会えた。  霞は懐かしむように目を細め、写真を撫でる。 「周藤君、僕はずっと自分が許せなかった。生きるなら、幸せを感じるのは罪だと思っていたんだ」 「霞さん……」 「きっと別の生き方もあったんだろう。でも、僕にはこんな生き方しか出来なかった」  終わりが来るのをずっと待っていた。  悔やんで、自分を許せなくて、責め続けて。  それは変わる事はないと、そう思っていた。  変わってはいけないのだと。 「ガク、僕を見放さないでくれてありがとう」  岳嗣がいた。椿がいた。夕がいた。  彼らの存在は、いつの間にかかけがえのないものになっていた。 (利人君。どうか、いつまでもそのままの君で笑っていて)  彼との関係を後悔していると言った。彼は優しいから、きっと自分が死んだ後悲しんでくれるのだろう。この関係に悩みもしたかもしれない。だから、余計に悲しまなくて済むようにわざと彼を怒らせるような事を言った。  でも、それは事実でもある。この人生は自分が望んでいたものとは別のものに変わってしまったから。 「君達のせいで、僕は今とても満たされているよ」  気づかない場所に幸福はあった。  今ならそれが分かる。  太樹。ごめんな。  お前と同じように苦しみながら死ぬんだろうと思っていた。やっと罪を償えると思っていたのに、どうしてだろう。  色のなかった世界が、今ではとても鮮やかに見える。  家への帰り道、ぽつぽつと雨が降り始めた。  細く静かな優しい雨だ。雲の向こうでは太陽が昇り始め、辺りは少しだけ明るくなる。 「霞さん、着きましたよ」  車を止めエンジンを切った岳嗣は助手席に顔を向ける。 「霞さん」  返事はない。 「霞さん、起きてくださいよ。霞さん……」  声は次第に震え出す。肩を揺すっても霞の目は一向に開かない。  玄関の前には椿が立っている。岳嗣と岳嗣の背中に背負われた霞とを見て椿は身体の前で重ねていた掌をきゅっと握った。 「霞さん、おかえりなさい」  椿は優しく労わるように微笑む。 「お疲れ様でした」  その声はとても柔らかく、岳嗣は瞳に涙を溜めて首を曲げる。  視線の先には、とても穏やかな顔をして眠る霞の姿があった。 ――カレイドスコープ・了

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