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16 憧れ〈2〉

「先日、滞りなく父の一周忌を終えました」  利人の肩が静かに強張る。深い赤褐色の瞳がゆっくりと夕を見つめた。 「利人さん、父の墓に行った事は」  利人は静かに首を横に振る。それまで明るかった表情は一転落ち着いていて、その瞳はどこか遠くを見つめているように見えた。  焦燥感に咽喉が乾く。 「利人さん」  堪らず名を呼ぶと、利人は視線を夕へと戻した。  名前を呼んだからって彼の気持ちまで引き留められる訳じゃないのに。 「まだ父の事を想っていますか」  一瞬憂いを帯びたその瞳に嫉妬した。自分には向けられる事のないその瞳に。  夕の言葉に利人は驚いたように目を見張らせ、そしてゆっくり力を抜くように睫毛を伏せて静かに息を吐く。 「そんな事、考えた事なかったな」  雲の切れ目から光が差し込みテーブルを明るく照らす。利人はそれに釣られるように窓の外へと視線を動かし、眩しそうに目を細めた。 「周藤先生な、本当容赦ないんだわ」 「……はい?」  急に話が変わり戸惑っていると、利人は構わず外を眺めたまま言葉を続ける。 「俺、途中で入ったから履修し直しの単位とかもあるしレポート多いしもう本当毎日目まぐるしくてさ。取りたい資格もあったしバイトもしたかったし。白岡教授の事なんて考えてる暇ないよ」  ははと利人は笑う。釣られて夕もふっと肩を揺らした。 「何だ。その様子じゃ俺の事もすっかり忘れてたんでしょう、薄情ですね」  悪戯にそう口にすると、利人は一瞬ぴたりと笑うのを止める。 「え、マジで? 傷つくんですけど」 「ちっ違っ! 忘れてないから!」 「本当かなあ」 「本当だってもう……おい何笑ってんだよ!」  きっと利人の言葉は例え少しだとしても本当なのだろう。そうなら嬉しい。  まるで時が戻ったかのようなこの何気ないやり取りにほっと心が和んだ。 「利人さん」  夕はそっと拳を握りしめ、利人の名前を呼ぶとゆっくりと頭を下げる。  自分が犯した行為にずっと目を背けてきた。けれど、もう卑怯なままではいたくない。 「去年の事、すみませんでした」  一文字一文字、刻み付けるようにはっきりと口にしたその言葉に利人は軽く目を見張らせる。 「俺……俺は、利人さんを意のままにする父が憎らしかった。なのに、結局俺もあの人と同じだ。利人さんは嫌がっていたのに、俺は……」 「違うだろ。お前は悪くないよ」  声が震えそうになるのをぐっと堪える。俯き唇を噛む夕の肩を利人の手が優しく触れた。言葉通り相手を咎める事のない利人のその柔らかい声に胸が締め付けられる。 「どうしてそんな事が言えるんですか。最低な事をしておきながら、俺は自分の事ばかりで貴方に謝ってすらいなかったのに」  利人の優しさに甘えて、まるで自分ばかりが傷ついたみたいに憤った。  本当に、何て最低な人間なのだろう。 「夕、お前はそれで良いんだよ。謝るべきなのは俺の方なんだから。あれはお前が怒って当然の事だったろ」  利人はそう言って夕の肩をぽんぽんと軽く叩くとその手をそっと離す。 「今日はありがとな。最後にまた会えて嬉しかった」 「利人さん?」 「そろそろ仕事に戻らないと。それじゃ、元気でな」  利人はそう言うと立ち上がり、夕が幾度かの瞬きをしている間に席から離れていった。 (これで、さよなら?)  夕はひとり茫然と店を出ていく利人の背中を見つめた。追い掛けるという動作を忘れたかのように身体はぴたりと椅子に縫い留められて動かない。  何て呆気ない幕切れだ。 「最後……?」  ぽつりと唇の先から零れ出た言葉は波紋となって頭の中に広がっていく。  どくり、どくりと心臓が鈍く唸る。たった三文字の言葉が重く伸し掛かる。 (嫌だ)  ざわりと全身が騒いだ。  途端弾けたように立ち上がると見えなくなった利人の姿を追う。  建物の外に出る扉を開けるとぶわりと吹く向かい風と薄紅色の無数の花びらにぎゅっと目を閉じた。薄く開いた視界には青い芝生と早咲きの大きな桜の木。壁に沿って続くレンガ道。そして灰色の背中が映る。 「待ってください!」  そう叫ぶと大股で地面を蹴り利人の下へと走っていく。 「夕? どうした、何か……」 「最後だなんて、言わないでください」  ふう、と乱れた呼吸を整えて利人の正面に立つ。  これでは一年前と何も変わらない。  ただ会いたいから、許されたいから、ただそれだけの為に利人を呼び出したのではない。  この想いを諦めるつもりも、苦い思い出にするつもりもないのだ。 (何を言えばいい? どうしたら利人さんを引き留められる?)  繋がりが欲しい。  今のような過去の関係を引きずったあやふやなものではなく、もっと確かなそれは。 「友人になってくれませんか」  その言葉は頭で考えるより先に口から出た。  え、と小さく唇を開く利人。夕もまた自分の発した言葉に内心驚く。  けれどその言葉はすんなりと頭の中に溶けていった。 「以前俺達はただ先生と教え子でしたね。今はもう何も関わる事のないただの他人だ。でも俺は、利人さんと過ごす時間が結構楽しかったんです」  結構、なんてものではない。本当は世界が変わって見える位夕にとっては大きな変化だった。  もっと近づきたくて、早く大人になりたくて。縮まらない年の差にじれったくなった。 『教え子』でも『弟』でも駄目なのだ。  せめて『友人』なら、少しは対等になれただろうか。  必要以上に人の罪まで背負わせることはなかったんじゃないのか。 「またこうして会いませんか。一緒に食事をしたり、買い物に行ったり。メールや電話もしたいです。利人さんさえ良ければ」  家庭教師だった利人とプライベートを共有したのは数える程度しかない。  今大事なのは、きっとそういう時間だ。  もっと利人の事を知りたいし、自分の事も知ってほしい。 「良いのか?」  利人は眉を下げ、不安そうにそう口にする。  夕は思わずくすりと苦笑いを零した。 「良いも何も、俺がそう頼んでるんですから当然でしょう」  利人のその『らしい』とも言える謙虚な言葉に少し安堵したものの、彼の困ったような戸惑いの表情に不安は拭えない。  左手をきゅっと握り締め手の中の感触を確かめる。 「父の事もあります。俺と関わるのが辛いなら無理して付き合わなくていい。けど俺の頼みを聞いてくれるのなら……」  ずい、と左手を利人の目の前に差し出す。その手にぶら下がっているのは紺色の紙袋だ。 「これを受け取ってください」  利人はきょとんと目を見張らせ、小さなその包みを見つめる。  何か言い掛けたその唇は、しかし何も言葉を紡ぐ事なく吐息を零した。 「その言い方だとまるで俺が引きずってるみたいじゃん。馬鹿だな」  利人が一歩足を踏み出しその手が伸びる。  つ、と紙袋の紐に指を当て、夕の手からそれを奪っていく。 「お前、ずるい。後悔したって知らないんだからな」  仕方なさそうにくしゃりと笑うその姿が愛しくて胸が詰まる。 (貴方の方がずっとずるい)  この心を幾度となく奪っていくのは利人だけだ。  はらりはらりと舞う桜の花びらに彩られ、春の光を受けた利人の髪が、瞳が、淡く輝く。その繊細さと清らかさに陶磁器の人形を思い出した。  ――『あこがれ』  脳裏に浮かぶはあの人形のタイトル。  ぎゅう、と甘い切なさに胸を焦がした。

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