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15 憧れ〈1〉
夕の目の前には乳白色の人形が飾られている。陶磁器でつくられたそれは滑らかで控えめな光沢が人形を品良く見せていた。
西洋の田舎に住んでいる町娘といった素朴な印象のその人形は布を頭に被せ籠を両手で抱えて微笑んでいる。
その人形は天使でなければ聖母でもない。ただ普通の少女の人形だ。けれど何故か、その姿に純潔や包容力といった尊さを垣間見た。
(目元か? 何だか……)
少し、ほんの少しだけれど利人の顔が重なる。
「夕、おまたせ」
近づく足音と共に小さく声を掛けられ振り向く。シャツの上に灰色のカーディガンを羽織った利人は行こうかと出口を指差し、夕は口元を緩ませ静かに頷いた。
その博物館の中には少々広めの喫茶店があり、混雑のピークを越えたと思われる店内ではぽつりぽつりと適度に席が埋まるのみだ。
店の奥、窓際の小さな丸テーブルの席に腰掛けるとガラス越しに青々とした芝生と大きな桜の木が見えた。
「そうなんだよ、達也の友達で和希 君って子がいるんだけど『クロム』がお気に入りらしくてさ」
ありがとうと言う利人の手には夕がサインしたばかりのブランドカタログが握られている。夕が表紙を飾るそれを利人にしげしげと見つめられ、込み上がる恥ずかしさに夕はコーヒーを啜った。人除けの伊達眼鏡が少し曇る。
「でもアーティストならともかく俺のサインなんて別に要らないと思うんですけどね」
「それはほら、そこからファンになったって事だろ」
もう一冊な、と封筒からカタログを出して渡されるとカタログの中の自分と目が合う。
「これは?」
「それは俺用」
へへ、と照れ笑いを浮かべる利人に堪らず眉間を押さえた。
「だ、駄目か?」
「……良いですけど」
(そういうとこ弱いって知らないんだろうなこの人は)
はあ、と溜息を吐いて油性ペンのキャップを外す。
先日達也にサインを乞われたものの丁度良い台紙がないとそれは一旦保留となった。しかし結果として会う約束を取りつけた利人を経由する事となり、何故か利人の目の前でサインをするというおかしな事態となったのである。
「お待たせしました。照り焼きチキンサンドのお客様」
店員がやって来ると手早くテーブルに置かれた封筒を拾い上げカタログを戻して利人に返す。テーブルには遅めの昼食となるサンドイッチとコーヒーが並べられた。
利人と一年振りに会った『オータム』での状況と似ていて思わず口元がふっと緩む。ただあの時とは違い、向かいには最初から利人が座っている。
ここは利人がアルバイトに来ているという博物館だ。予定がある事は覚悟の上で少しでも会えればと思っていたが、休憩時間ならばと言われこうして一緒に食事を取る事になったのだった。
「悪いな、こっちまで来させて。お前は時間良いのか?」
「もう帰るだけですからね。利人さんこそまたバイト尽くめの生活してるんですか? 前も掛け持ちしてましたよね」
利人は以前夕の家庭教師のバイトに加えて居酒屋でも働いていた。実家暮らしなのに何故そんなに身を粉にして働くのだろうと思ったものだが、学費を自分で払う為だと言っていただろうか。
「全然だよ。こっちは時々だし畑山さんとこもそんなに多く入ってる訳じゃないんだ。大学の方が忙しいからさ」
寮に入れて良かったよと利人はカフェオレのカップを口元へ近づけ熱そうにふうふうと息を吹き掛けながら啜る。
「大学どうですか。周藤さんのゼミなんですよね」
「そう。楽しいよ、講義も多いけど大学の外に出る機会も結構あってさ。周藤先生厳しいけどその分やりがいはあるかな。そっちは? 友達出来たか?」
「友達って。そんな心配? それなりにうまくやってますよ」
だってどうせ勉強は出来るんだろ。まあそうですけど。――そんな他愛もない会話を交わしながらチーズや野菜の挟まったサンドイッチを頬張る。
近くを若い男女のカップルが笑いながら通って行った。それを視界の端で捕らえ、徐に唇を開く。
「彼女は出来たんですか?」
ただの世間話のように自然な口調でそう切り出すと、利人は少し困ったようにふっと小さく笑った。
「いると思うか?」
暗に否定を示すその答えにほっと安堵する。
「いても可笑しくはないでしょう」
「そうかもしれないけど、俺はお前みたいにモテたりしねえの」
「そんなの分からないですよ」
えー、と利人が笑う。
利人は分かっていない。今も自分に向けられる好意に気づかない。
いくつものチャンスが転がっていてもそれに気づこうとせず、きっと時には自分から捨てている。
それがこの人なのだ。
それでも、
「俺は容易に想像出来ますよ。例えばちょっと可愛くて天然な大学の後輩と付き合って、何年かしてプロポーズして結婚して、子供も二人位出来たりして」
「おいおい、何だよ藪から棒に」
「利人さんはそういう世間一般で言う『普通の幸せな人生』を歩める人だと思いますよ」
利人はきっとごく普通のどこにでもいるような人間だった筈だ。しかし父と特殊な関わりをしてしまったが為にそれが歪んだ。彼は今後また男を好きになるかもしれないし、それ故に彼の近くにいる達也も疑った。
それでも、もし彼が誰かと恋をするのなら女の方がずっと現実的だろう。
「何言ってんだよ、それを言うならお前だってそうじゃないか」
慰めなら要らないからな、と利人は冗談めかして唇を尖らせる。
(俺は違うよ、利人さん)
この先どんな人生を歩むかなんて分からない。いつか誰かと恋に落ちて結婚するかもしれないし、しないかもしれない。
それでも、少なくとも今は自分が誰かと恋をしてその人と一生の愛を誓うなんて到底考えられないのだ。
利人が誰かと恋をするならそれは女だろうなんて、本当はそんな事思っちゃいない。
ただ選ばれないのなら、せめてそうでないと堪らないからだ。
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