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14 アフターファイブ〈3〉

 食事をさっさと終わらせた夕はひとり店を出た。  狐というか、もはや蛇ではなかろうか。隙あらば相手の弱みにつけ込み抉る事を快楽としそうな不気味さがある。正直関わり合いになりたくない相手だ。 嫌な現場に利人が居合わせてしまったのは不運でしかないが、余程の事がない限り二度はないだろう。  びゅう、と冷たい風が頬を撫でる。こつこつと足の裏で地面を蹴り乾いた空気を捌く。 事務所の前まで来た夕は時刻を確認して薄暗い空を仰いだ。 「よし」  自分を奮い立たせるように小さく呟き目線を道路の先へ移す。 事務所を素通りし『オータム』へ向かうと店内からはまだ灯りが漏れていた。どきどきと心臓を締め付けるような緊張感はいっそ心地良い。  扉を開けようと手を伸ばすと、それはノブに触れる前に勝手に開かれた。 「っ、」  思わずびくりと驚いた。扉にはガラスがはめ込まれているから内側から誰かが扉を開けようとすれば相手の姿が映る。しかしそこには誰もいなかった。  予想外の事に意表を突かれる夕だが、何て事はない。目線を下げればそこには長い黒髪を団子のように二つに結わえた少女が大きな目を更に見開かせて立ち尽くしていた。初めてここへ来た日も店にいたこのみという名の少女だ。 「えっと……」 「すみません、もう閉店……ん? ユウ君?」  どう声を掛けたものかと戸惑っていると、モップを持った達也が奥からやって来た。  ちらりと店内を一瞥すればカウンターの奥にいる畑山とその向かいに座っている一人の男を除いて誰もいない。 「……終わりですか?」 「あー、今日は早仕舞いで」  ぶっきら棒にそう口にする達也を尻目にもう一度店内を見回す。 「雀谷ならいないぞ」  突然聞こえたその声は達也が口にしたものではない。達也より後ろの――そう視線を送りすぐその正体を知る。 カウンター席に座っている男は長い前髪を掻き上げ目鼻立ちの良い顔を露にする。ふう、と唇から煙草の煙が伸びた。 「当たりだ」 「周藤さん……」  肩まである長髪が似合っている野性味のある男、周藤岳嗣はにやりと口角を上げる。 父の友人である周藤と顔を合わせるのは数か月前に行われた父の一周忌以来だ。神奈川にある東陵大学で教鞭を振るう周藤がここにいるのは何もおかしな事ではない。 「俺がここに来た事、知ってたんですね」 「そいつからな。いつか鉢合わせるんじゃねえかと思ってたけど、結構掛かったな」  くつくつと周藤が笑い達也は気まずそうにそそくさと掃除を再開する。その脇を少女がぱっと走っていった。  周藤が口にした『鉢合わせる』とは素直に意味を取れば『周藤と夕』の事を指す。けれど、そこには別の意味が含まれているように聞こえてならない。 「そう睨むなよ」  その証拠のように周藤は小さく笑う。 「別に睨んでませんよ」 「そうか?」  じゃあ見間違いだったかと周藤は思ってもいない事を口にする。  この男が苦手だ。というか、いっそ嫌いだ。  夕はかつて同性愛者に偏見があり毛嫌いしていたが、それと言うのも幼い頃周藤が男と仲睦まじくしている姿を見てしまった事に原因がある。 加えて一昨年の夏には父と結託した周藤に弄ばれ散々な思いをした。利人は周藤に好意的なようだが、プライドの高い夕が周藤を厭い警戒するのは無理のない話なのである。  妙に勘が鋭く、その闇より深い瞳に見つめられればすべて見透かされてしまうような錯覚さえ覚える。周藤のそういう油断ならないところも夕が苦手とする所以だ。 そして一時は利人を遠くへ連れて行ってしまった周藤を恨んだ事もあった。けれどそんなのは八つ当たりだという事も分かっている。決めたのは利人で、周藤は父の意向を酌んで彼を導いただけだ。  だからこのやるせない気持ちは自分に対してのもので。  保身ばかりの自分に辟易する。 「周藤さん、また新潟に帰ってきた時にはうちに寄ってください。母が喜びます。いるか分かりませんが」 「椿ちゃんはいつも忙しそうだもんな」  では、と視線を巡らせれば畑山と目が合い軽く会釈をする。  外に出るとますます日が落ち辺りは暗く冷たい風が吹いた。名前を呼ばれて振り返ると、扉から顔を出した達也が顰めっ面で立っている。 「何か?」 「あー、その……利人さんに伝言とかあるなら、聞こうと思ったんだけど」  もごもごと口にするそれは次第に小さくなる。文句の一つでも言いたそうな顔だ。 (そういえば、利人さんと親しそうだったな)  もしかして達也は利人の事が好きなのだろうか。それなら敵視されているかのような達也の態度も頷ける。そうなると伝言というのは遠回しの牽制だ。  ゆるりと口角が上がる。 「心配しなくても利人さんの連絡先は分かってますから結構です。それとも、そんなに俺が気になりますか」  周藤に会ったからだろうか、気持ちが逸る。挑発的な言葉がするすると口から突いて出る。  利人と達也が既に恋人関係にあるという可能性も考えてはいた。――が、恐らくその可能性はとても低いだろう。  派手に染められた金髪。仕事中だからかひとつに束ねていて制服も比較的きちんと着てはいるが、その分ピアスやブレスレットがうるさく目についた。 猫背で背が低く見えるが、恐らく利人より少し高い位か。それでも自分に言わせれば十分低い。そして極めつけは来る者全員に喧嘩を売るかのような目つきの悪さ。  どう考えても利人が好きになるタイプとは思えない。  確かに利人は達也に対して好意的な発言をしていたし撮影にも彼を連れて来た。けれど恋人のような甘い雰囲気など二人からは微塵も感じられなかった。 (大体笑顔のムカつくへらっとしたおじさんが好きだった利人さんが怖い顔の不良なんかを好きになるかよ)  そこまで考えたところで自滅した事は言うまでもない。そんな事はともかく、だ。  さて、どう出るか。達也の反応を伺うと、達也は明らかに夕の発言に反応を示し何か考え込む素振りをすると、徐に後頭部をがしがしと掻き大股で夕の下へと近づいて来た。達也は俯きがちに一つ大きく息を吐くとすっと顔を上げて鋭い眼差しを夕へ送る。 尚、過去に若気の至りで不良とつるんでいた夕はきつく睨みつけてくる達也に対し全く怯まない。ただその眼差しはより冷ややかなものへ、掌はそっと拳をつくる。  ただその拳は、すぐに呆気なく開かれる事となるのだが。 「ユウ君、サインくれませんか」 「は?」  お願いしますと軽やかに下げられた達也の頭を、夕は訝し気に見つめるしかなかった。

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