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17 周藤ゼミ

 春も麗らかな四月。窓辺から暖かな光が差し込む講義室では教授がホワイトボードに文字を書き込みながら新年度最初の講義をしている。  教授と言ってもその先生はまだ若かった。白い髭を蓄えていなければ腰も曲がっていない。それどころか背の高いその身体はがっしりとしていてはきはきとした低音の声は美声だと学生のみならず職員の間でも話題となっている。  おまけに顔も態度も男前と来れば人気がない訳がない。彼の受け持つ講義は毎年人気で女の割合が大きいのは言うまでもないが、そのワイルドさから一部の男子学生からも熱い支持を得ていた。  周藤岳嗣(すどう たけつぐ)、准教授から教授へ昇進したてのこの男は関東に建つ東陵大学において考古学を専門としている。  そして周藤の研究室に所属している利人もまた、彼を尊敬し羨望の眼差しを送る男のひとりなのであった。 「今日の講義はここまでだ。質問のある者は?」  大きな講義室で教壇を構える事の少なくない周藤だが、今は研究生向けの専門科目の為こじんまりとした講義室で授業を行っていた。  会議室や教室と呼んだ方が馴染むその部屋は机を囲いのように四角く並べており全員の顔が見えやすい配置となっている。  その中の一人、利人の向かい側の席に座る女子学生が小さく「はい」と言って手を挙げた。 「賀茂居(かもい)さん」  どうぞ、と周藤が示せば賀茂居と呼ばれた学生は眼鏡越しに資料を見下ろしながら小さな唇を開く。  それは利人も気になったところで、周藤の回答を聞きながらさらさらとペンを走らせた。  他に質問する者がいない事を確認すると、周藤は話を切り替えるようにごほんとひとつ咳払いをする。 「さて、今からは四年次向けの話になるが進路はもう決まっているだろうか。就活を進めている者、試験を控えている者もいるんじゃないか?」  周藤と一瞬目が合う。この講義は三年次と四年次が混ざっていて、三年次は九人、四年次は六人この研究室に所属している。 「先月も話したが、もし君達の中で院への進級を考えている者がいるなら今週院試の説明をするから私のところへ来るように。少しでも気になるようなら来とけよ、個別に相談も受けつけるから。じゃあ解散」  ホワイトボードに書かれた日付を反射的にノートに取る。緊張の緩んだ室内ではひそひそと話し声が生まれ、周藤が講義室を出るとそれも完全に解かれて話し声が大きくなる。 「なあ、雀谷」  リュックにノートを仕舞っていると、隣に座る学生に話し掛けられその手を止めた。性格が明るく研究生の中では比較的言葉を交わす事の多い彼は富岡と言って、利人とは反対隣に座る女子学生と話していた筈だがその彼女は今は別の友人と話している。 「雀谷はやっぱり院試受ける?」 「え?」  当然の事のように話し掛けられ利人は目を丸くする。富岡もまた釣られたように目を瞬いた。 「俺、公務員志望だから」  そう言うと、富岡は心底驚いたように「えっ」と眉を上げる。その声に釣られてか彼の隣にいた女も振り返った。 「雀谷はてっきり大学残りたいんだと思ってた。俺達就活組だし、もしかしてうちの代からは院生出ないのかもな」 「何言ってんの、リカちゃんがいるでしょ。周藤センセがいるんだし」 「あー」  声を落としくすくすと笑う女に倣うように彼もまた口元を曲げてにやにやと笑う。言葉の意味を汲み取れない利人はひとり首を傾げた。 「賀茂居さん、院に進むんだ?」 「さあ。知らないけど行くんじゃない、あれは」  利人の問い掛けに女は意味ありげに目を細め、他の友人と顔を見合わせてくすくすと笑った。  視線を巡らせれば、噂の賀茂居リカが顎の高さで切り揃えられた前下がりの黒髪を揺らして講義室を出ていく。下向きに伸びた睫毛の下、重く垂れ目がちの瞳は真っ直ぐ前方へ向かっている。  もしかしたら聞こえていたかもしれない。けれど当の本人達は何も気に留める事なく既に別の話題の会話を楽しんでいる。  今の四年次は例年よりも配属された学生が少ないらしく、利人が三年次になって編入するまでは五人だった。内四人は仲が良く、途中でやって来た利人にも気さくに話し掛けてくれる者もいる。富岡がそうだ。  しかしその学年の中で賀茂居リカは少々特殊だった。  いつも他の学生と距離を置いて席に座る彼女は物静かでそっけない。他の学生とは気が合わないのか、彼女を苦手だと言う者もいた。また今日のように周藤に質問をする姿は珍しいものではなく、周藤の研究室を訪れて彼女と鉢合わせるのも何度かあった事だ。  だから彼女が大学に残るのかもしれないと聞いても驚きはしない。しかしそれは彼女に限った事ではなかったようだ。同じ研究室である彼らと気さくに言葉は交わせど、せっせと勉学に打ち込んでいた利人は十分『やっぱり』と思わせるものがあったのだろう。  支度を終え講義室を出ようとすると、富岡に再び呼び止められる。 「それ良いな」  富岡はそう言って自分の手首をとんとんと叩く。利人は自分の手首を見ると、ふっと口元を緩めた。 「だろ」  利人の左手首にはキャメルの革の飾り紐が巻かれている。それは数週間前に夕がくれたものだ。  いきなり何を渡されたのかと戸惑いながら包みを開けてみればびっくり。そこにはブレスレットと共に『誕生日おめでとうございます』と丁寧な夕の字で書かれたカードがあった。  利人の誕生日は四月六日。電話先で『ちょっと早いけどお返し』と照れ臭そうに言っていた夕の言葉を思い出す。まさかそれが誕生日プレゼントだなんて思ってもみなかったし、何より夕が誕生日を覚えてくれていたなんてそれだけでもとんだサプライズだ。  アクセサリーは気恥ずかしくて普段滅多につけないのだけれど、折角貰ったからとつけていると利人によく似合っていると沙桃や達也が褒めてくれた。  切りっぱなしの細い革紐を二重に腕に巻き付けて留めるデザインのそれはシンプルで服装を選ばず、気がつけばまるでお守りのように殆ど毎日つけている。アクセサリーに慣れていないからこそ、浮かれてついついつけてしまうのだ。  夕とは頻繁にメールや電話のやり取りをするようにもなった。それは互いの学校の話だったり友人の話だったり、大概が何気ない日常の話だ。けれど夕とこうしたやり取りをするのは意外にも新鮮なもので、不思議と途切れない。  夕が求めた通り、誰が見ても二人は仲の良い『友人』そのものとなっていた。

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