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18 狐は嘯く

 弁当を食べ終えた利人は文具用品を買う為に購買部へ向かう。忙しい両親に代わりよく家族分の弁当をこしらえていた利人は、寮暮らしを始めてからというものより一層節約に励み毎日弁当を持参していた。  比較的人通りの少ない裏口の扉を開くと、パンと小気味の良い音が響いてはっと顔を上げる。 「サイッテー!」  続く女の悲鳴のような声。思わず声のした方を振り向くと、大学生であろう男と女の姿があった。  男の顔が見えた利人はちかりと記憶の片鱗が引っ掛かる。 (あの糸目、どっかで……?)  目が細く独特の雰囲気があるが端正な顔立ちをしている。憮然とした態度で頬を赤く染めた男の顔を利人は無意識にじっと見つめた。 「アンタなんかもう知らない!」 「俺もお前みたいな暴力女知らねえよ」  女は唇を噛むと怒りに肩を震わせ「馬鹿!」と叫んで踵を返す。目が合うと女はばつの悪そうな顔をして顔を歪ませ走り去って行った。  気まずい。壮絶な場面に出くわしてしまったと青ざめていると、男とも目が合いびくりと硬直する。 「何」 「いや、何も」  やばい。睨まれている。  つい立ち止まってしまったがじろじろと見るものではなかった。これは失礼というものだろう。  ひとまず早くここから離れようと足を踏み出すと、男もまたずんずんと足を運びあろう事か利人の目の前に立ち塞がった。 「あーっ、やっぱりあんたあの時の『覗き魔君』だ」 「え?」  細い目を更に細めて悪戯っぽく唇を曲げる男の顔を見て、利人は「あっ」と口を開く。  思い出した。夕の撮影を見に行ったビルの中で迷い込んだ時に見掛けたあの男。廊下で女とキスをしていた彼だ。 「なーんだ、ここの大学生だったんだ。覗き見が趣味なの? イイ趣味してるなあ」 「なっ、別に好きで見てた訳じゃない! この間だって、たまたま通り掛かったらそっちが……! こう、出るに出られなくて、だな」  しどろもどろな利人に男はあははと笑う。どうやらからかわれたようだ。 「あんた先輩? どうも、俺那智。法学部のぴかぴかの一年」 「あ、ああ。文学部四年次の雀谷利人だ。よろしく……?」  さっきまでの尖った態度は消え親し気に話し掛けてくる那智に利人は戸惑いの表情を隠せない。ほぼ初対面だというのにこのフランクさは何なのだろう。 「四年かあ、じゃあユウとは年離れてんだ。ユウよか年上だろうとは思ってたけど、子供っぽいからもっと下かと思ってた。『利人さん』ってより『利人君』って感じ。そう呼んでいい?」  ずけずけとした那智の発言に利人は面食らう。『子供っぽい』という評価が鉛のように肩にずしんと重くのし掛かった。そんな風に見られるとは心外だ。 「いいけど。那智君、夕の事知ってるんだ」 「那智でいいよ。ユウの事は勿論知ってるさ、事務所同じだし。あー、くそっ。あの女モデルの顔引っぱたきやがって。利人君、俺の顔傷ついてない? 大丈夫?」 「ちょっと赤くなってるな。さっきの子すごい剣幕だったけど……喧嘩?」  むすりと顔を顰めていた那智は利人の返事を聞くと慌てて鞄の中から鏡を取り出し自分のしかめっ面を映し出す。そして溜息を吐くと鏡から目を離さないまま「んー」と曖昧な声を漏らした。 「喧嘩っつーか別れたんだよな。他の女とは会うなとか浮気するなとか面倒臭い事言うから、もう終わりにしようって言ったらキレられた。あいつうるさいからまあ丁度良かったけど」  那智はそう言いながら頬を撫でぱたんと鏡を閉じる。  平然とそんな事を言う那智の隣で利人は唖然としていた。新入生が入学早々口にする言葉ではない。入学以前からの付き合いなのだろうが、思い起こせば以前那智とキスをしていた相手は先程の彼女ではない。顔をろくに見ていた訳ではないけれど、髪の長さも雰囲気も全然違う。  つまりそれは、那智が複数の女と付き合っているという事で。  那智の言葉が頭の中でリフレインする。  イラ、と無性に腹が立った。 「そういう言い方、ないんじゃないの。彼女、泣いてたぞ」 「だから? あんたには関係ないだろ。それとも何、説教?」  笑わせるね、と那智は鼻で笑う。  そうだ。関係ない。ここで那智に突っ掛かるだけ無駄だという事も本当は分かっているのについ口から言葉が出てしまった。涙を溢れさせていた彼女を不憫に思ったからだろうか。 「偉そうな事言うつもりはないけど、彼女ならもっと大事にすべきなんじゃないのかなって思っただけ」  そうでなければ那智を好いている女達が可哀想だ。しかし那智は聞く耳持たずといった様子で呆れ顔で肩を竦めてみせる。 「あんたはそうすれば? さぞかしかっわいー彼女がいるんだろ?」 「いや、俺はそういうのは……」 「だよなあ、いないよな」  そうだと思ったと那智はにやにやと口角を上げる。 (何だ、こいつ)  ぴくりと眉を動かす。いちいち癪に障る言い方をする男だ。沸々と沸き起こる苛立ちを何とか腹の下に収める。  するとその時、背後の扉が開いた。 「邪魔なんだけど」  小さく高い声が聞こえ振り向くとそこには賀茂居リカが立っていた。 「賀茂居さん」  リカは眼鏡越しに利人と那智の顔を一瞥すると表情を変えずに「どいてくれる」と小さな唇を動かす。 「あ、ああ。ごめん」  利人が慌てて除けると那智も無言で身体をずらす。彼女が通り過ぎていくと那智はくるりとターンをするように振り返った。 「利人君、リカ知ってんの」  今度は那智に問い掛けられる。その顔は笑っても怒ってもいない。  まるで彼女と親しいかのような反応におや、と思いながら首を縦に振った。 「ゼミが同じなんだ」  それだけ言うと那智はふうんと宙へ視線を飛ばし数秒間の間の後にこりと悪戯っぽく笑った。 「利人君、また今度会ったらオンナ紹介してあげよっか。ダチにカワイイ子沢山いるよー。美人のモデルが恋人なんて夢でしょ?」 「ええ? いやいいよ、俺そういうの苦手だし」 「またまたぁ、何気取ってんの彼女欲しい癖に。それともコッチの趣味?」  那智はそう言いながら左頬の横で右手を反らす。馬鹿にしたようなその口振りに、カッと頭に血が上った。 「やめろよ」  思わずそう顔を顰めてはっと我に返る。那智もぽかんと細い目を開いていた。  那智はただふざけているだけだ。これ位の事きっと誰でも言う。利人だって、自分がもっと若かったなら話のノリでそう口走っていたかもしれない。  けれど今の利人はそうやってそういう人達を笑いものにする事が許せない。  近しい人達を思って、というのもあるけれど。  正直、どきりとした。 「冗談だってば。ノリ悪いなあ」  からりと笑う那智に利人は苦笑いを浮かべる。変に思われなかっただろうかと不安が過ぎったが、その心配はないらしい。  那智は利人の肩を軽く叩いて「じゃあ」と薄い唇を開く。 「またね、チェリー先輩」  面白がるような声音でそう囁いて那智は裏口の扉から出ていく。  一人残された利人はぽかんと口を開けて開きっぱなしの扉を見つめた。  そうしてぶわりと顔を真っ赤に染め上げわなわなと肩を震わすのだった。

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