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32 サプライズ

「あの、もしかして『クロム』のユウ君ですか?」  金曜日の夜七時過ぎ、東京駅に降り立った夕は後ろから突然声を掛けられ振り向いた。そこには二人組の女子高校生が頬を桃色に染めて立っている。 「あ……はい。そうです」  眼鏡をずらして微笑むと二人はきゃあと顔を見合わせて黄色い声を上げた。 「あ、あのファンなんです! 良かったら握手してもらえませんか?」  二人のうちの片方、顔を真っ赤にして勢い込む少女に夕は「是非」と言って彼女の手を握った。夕の笑顔に少女は呆けたように目をとろんとさせている。 「制服姿、かっこいいですね」 もう一人とも握手を交わすと、そう言われてありがとうと目を細める。また悲鳴が上がった。 そうして夕は「頑張ってください!」と声援を受け熱い視線を浴びながら彼女達に手を振り去った。 『クロム』というブランドから始まりモデル活動を広めていった夕はじわじわと人気を伸ばしていた。男性ファッション誌だけでなく女性ファッション誌にも出るようになった事もひとつの要因だろう。  忙しくなければ握手には応じるようにしているが、それでも今日の夕はいつもより三割増し笑顔だ。  何故そんなにご機嫌なのか、それは声を掛けられたのが嬉しかったからでも彼女達が可愛らしかったからでもない。 夕はそういう事には頓着しない。少女達の黄色い声を浴びるのには慣れているし一番可愛いと思っているのは利人だ。  そう、夕の心を最も動かすのは利人ただ一人。  およそ三週間振りに利人に会えると思うと嬉しくて嬉しくて口角も上がるというものだ。夕はうきうきと心を弾ませながら足早に乗り換えのホームへと急ぐ。  今回の撮影は数日前に急に連絡を受けたものだが夕は二つ返事でやると言った。当然だ。撮影を言い訳に利人に会いに行けるのだから毎週だって良い位だ。 現実には塾だの何だので阻まれているし行ったところで利人にたしなめられるに違いないのだからそれは不可能なのだが。  撮影は土曜日と日曜日。土曜日に出発しても間に合うのだが、利人に会えるかもしれないと思うと金曜日の授業が終わってすぐ制服のまま新幹線に飛び乗った。家に戻る時間が惜しくて最低限の荷物は既に鞄に詰めていたのだ。後は買い足せば良いし事務所にはある程度のものが揃ってもいる。 (今日は利人さん『オータム』にいるかな。もしバイトないならご飯とか、いや利人さんはもう食べてるか。そういえば寮って部外者入れんのかな)  なんて考えながら電車に揺られ南下すると事務所及び喫茶『オータム』の最寄り駅に着く。もう外は日が暮れて暗くなっていた。 (利人さん俺が顔出したら驚くかな)  駅に降り立った夕は制服の皺を払うと以前薫と歩いたように裏道を通って店を目指した。  実は今回東京へ来ている事を利人は知らない。仕事が決まった時早速連絡を入れようとしたのだが、電話を入れると不在で後にレポートが忙しいとメールが来たのだ。  どことなく言い出せず、そうだ急に行ってびっくりさせるのも面白いのではないかと今に至る。  電車に揺られながら計画半分妄想半分な事も考えはしたが、撮影があるし利人も忙しいのなら日曜日までいても会えない可能性はあるだろう。けれどそれでも少しでも会って声を聞きたい。 (那智の事もあるし)  那智の件で利人が気に病んでいるのではないかと夕は少し心配だった。  そうこうしているうちに店に着くと、夕はどきどきしながら窓を覗き込む。  時刻は八時を過ぎた頃で夕食を食べている客が何組か目に留まった。畑山にこのみの姿も確認出来る。だが利人の姿は見当たらない。  ぐうとお腹が鳴り、利人がいなくても食事はしていくかと店に入ると畑山と目が合った。 「おや、珍しいお客様ですね。久し振り、夕君」 「こんばんは。今日はお店やってるんですね。良かった」  カウンター席に座るとこのみがやって来て背伸びをして水の入ったグラスをテーブルに置いてくれる。ありがとうと言うとこのみは照れ臭そうにそそくさとカウンターの中へ戻って行った。この間もそんな様子で人見知りの大人しい子のようだったが、初めて会った時はむしろ年齢に似合わず大人びた発言が印象的だったものだ。  変な子だな、などと考えながら何気なく辺りを見回すがやはり利人の姿はない。 「利人君と待ち合わせしてました?」  畑山の声にぱっと顔を上げると畑山はにこにこと目尻に皺を刻んでコーヒーを淹れている。 「今お使い頼んでるんです。もうそろそろ帰って来るんじゃないかな」  その言葉に夕の心は浮足立った。 (利人さんに会える)  どくんどくんと胸が高鳴る。しかし夕は畑山が心配そうに窓の外を見ている事には気づかなかった。  するとちりんと扉の開く音が聞こえてぱっと振り返る。 「利人さ――」  他に客がいるのも構わず顔を綻ばすが、緩んだ顔はすぐに引き締まり笑顔は消えた。  そこに立っているのは紛れもなく利人だった。しかしドアノブに凭れるように入ってきた利人の顔は赤く、マスクをつけていても具合が悪い事は明らかだった。  夕の声が聞こえなかったのか、利人は夕には一瞥もくれずにふらついた足で店の中へ足を踏み入れる。  その身体がゆっくりと崩れ落ちた。

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