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33 高熱

「利人さん!」  ガタン、と椅子が倒れる音が響く。店内の視線が夕へと集まる。  間一髪利人の身体を受け止めた夕は床に尻をついて利人の身体を支えた。その身体は熱く、額に触れるとまるで火を吹くかのようで目を見張らせる。 「夕君、利人君! 大丈夫ですか⁉」 「利人さんがすごい熱です。どうしよう、病院……救急車!」  駆け寄る畑山も夕も青ざめた。すると小さな手がにゅっと伸びてきて利人の額に触れる。 「スズ君、スズ君。私が分かる?」  はきはきと口を開くこのみに、ぜえぜえと荒い息を吐く利人はぎゅっと顔を歪ませて薄く目を開いた。 「この、みちゃ……? ごめん、仕事……」 「馬鹿ね、こんなになるまで平気な顔して黙って。仕事はいいからゆっくり休みなさい」  ね、と頭を撫でるこのみに利人は申し訳なさそうに眉を寄せて瞳を左右に揺らす。そして畑山と目が合ったのだろう、頷く畑山に利人はすみませんと細々とした声を絞り出し目を閉じた。 「利人さん、嫌だ……死なないで」  こんなに苦しそうな利人の姿を見るのは初めてで気が動転していた。このまま息を止めてしまうのではないか、二度と目を覚まさなくなってしまうのではないかと急に恐ろしくなる。  そこで初めて夕の存在に気づいたのか、重たそうに目を開いた利人は不思議そうに夕の顔を見上げた。 「勝手に、殺すなよ」  ふ、と口元を綻ばせて利人はだらんと力なくしな垂れる。 「利人さん? ――利人さん!」  ぞっとして利人の身体を揺らす。すると、ばしんと無遠慮に肩を叩かれはっとした。このみだ。 「寝てるだけよ、そっとしてあげて。風邪で熱出してるだけだろうからそう簡単に死なないし救急車も要らないわ。ちょっと落ち着きなさいよ」  年端もいかない子供に叱られてしまった。本当にこの子はあのあどけない少女と同一人物なのかと疑ってしまう。  ぽかんと目を見開かせる夕に畑山は困ったように少しだけ微笑んだ。 「利人君、ちょっと前から風邪を引いていたんです。今日も時々咳はしていたけど平気だって言ってたし、声も一応出てたしね。 けどこんなになるまで酷くなるなんて気づいてあげるべきだった。さっきまで忙しくて慌ただしかったとはいえ」 「だからこそ悪化しちゃったのかもしれないわね。私ももっと気をつけるべきだったわ。スズ君が具合悪くても無理しちゃうの、いつもの事なのに。それに今日はサギ君の代理だからますます気を張ってたのかも」  はあと溜息を吐くこのみの発言に夕は眉を顰めた。 「いつもってどういう事ですか? 利人さん、前にもこういう事が?」  利人が家庭教師についていた頃、利人は一度として体調不良で休んだ事はないし風邪をこじらせている姿も見た事がなかった。  いつも元気で明るく勉強もバイトもバリバリとこなす。思っていた以上に心も身体も強い人だと思っていた。  だからこのみの言葉にショックを覚える。 「スズ君はよく風邪引くわよ。季節の変わり目とか冬とか。身体弱いんじゃないかしら」  このみの言葉が重く伸し掛かる。  知らなかった。週に一度、いやもっと多いペースで会っていた時さえあったのに。 どうして気づかなかったのだろう。 (でも、普通風邪なら見たらすぐ気づく。ずっと見てたんだ。利人さんの事を、ずっと)  再会した利人は以前と変わらず元気そうだった。  けどその身体には、心にはまだ負担があったのだろうか。一年振りに見る利人が少し痩せて見えたのは気のせいではなかったのか。  利人は耳まで赤くして苦しそうに眉根を寄せている。思わず利人を支える手に力が籠った。 「とりあえず布団に寝かせましょ。アキ、うちに運ぶ?」 「そうだね。達也君は法事でいないから寮に連れて行く訳にもいかないし。――夕君、申し訳ないけど手伝っ、」 「俺が連れて帰ります」  畑山の言葉を遮り夕が口を開くと、畑山とこのみの視線が夕へと注がれる。 「俺が利人さんの看病をします」  夕は利人を両腕に抱きかかえ立ち上がると、軽く頭を下げ足早に店を出た。  ただただ必死だった。助けなければ、守らなければ今ここにいる意味はない。 夕は信号で足を止めると利人を抱きかかえたまま制服のポケットに手を忍ばせる。  夜風が冷たく汗を攫った。    *** 「本当にありがとうございます、薫さん」 「どういたしまして。びっくりしたわよ、突然電話してきて助けてくださいなんて言うんだもの。社長には話通してあるから安心して」  また礼を言って深く頭を下げる。薫は「後で解熱剤持っていくから」と言って仕事に戻って行った。  夕はふうと一息吐くとネクタイを緩めて踵を返す。視線の先では利人がベッドの中で額に濡れタオルを乗せて眠っている。  事務所には折り畳みベッドが常備されていて、給湯室に加えシャワー室もある為夕のように遠くから来るモデルは殆ど不自由なく事務所内の個室に泊まる事が出来た。とはいえホテルに泊まる方が気楽なのだが、まだ高校生だからと夕の場合は強制的に事務所に寝泊まりする事を余儀なくされている。  事務所に所属もしていない利人を連れて行くのは難儀かと思われたが、夕の必死さが功をなしたか薫が融通を効かせてくれて広めの部屋を用意してくれた。部屋を二つ用意しようとも言ってくれたが、夕に利人の傍を離れるつもりは更々ない。  椅子に座り利人の顔を覗き込むと利人は首まで顔を赤くして汗を滲ませている。夕は既に温くなった額のタオルを氷水に浸してぎゅっと絞ると、そっと汗を拭き取って再び額に乗せた。 「ん……っ、」  不意に利人が顔を歪ませ呼吸を乱す。時折苦しそうにうなされる利人を前に夕は為す術もなくはらはらと不安を抱くばかりだ。  利人の脇に挟んでいた体温計が音を鳴らし取り出すと夕は一層顔を曇らせる。 三十九度五分。高熱だ。 (このまま様子を見て明日朝一で病院に連れて行こうって薫さんは言ってたけど……)  悪化しないだろうかと不安は尽きない。  大抵の事は卒なくこなす夕だが人の看病までは慣れていない。畑山達にああは言ったものの、利人のベッドのセッティングをし看病の心得を伝えていった薫には頭が上がらない。 「……じゅ」 「利人さん?」  不意に、利人の唇が何かを紡いだ。起きたかと思われたがどうやら寝言らしい。利人の瞳は固く閉ざされたまま、何かを強く求めるように唇が開かれる。 「しらおか、きょうじゅ」  苦し気に、掠れながら紡がれたその言葉に夕は深い谷底へ突き落されたような錯覚を覚えた。  ぐっと拳を固く握り締める。  一年経って尚、その心は未だあの人のものなのか。

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