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34 愉快な夜〈1〉
大学の講義が終わった後那智は最近知り合った年上の女と飲んでいた。そして「うちに来ない?」と胸を押しつけてくる女の誘いを当然のように受け入れ、彼女の住むマンションへと向かっていた。
「こうやっていつも男連れ込んでるんだ?」
「ヤダ、そんな事ないよぉ。那智があんまりかっこいいから離したくないの。君、モテるでしょ?」
「そんな事ないよぉ」
那智が冗談めかして言うと女はおかしそうにくすくすと笑った。その頬は赤く染まり足元は若干ふらついている。
那智はさり気なくちらりと辺りを見回すと失敗したなと内心舌打ちをした。
(バレたらマネージャーがうるさいんだよなあ)
今歩いている場所から事務所は近い。まさか彼女のマンションが事務所の近くだとは思ってもみなかった。
那智の女関係の奔放っぷりは事務所にはとうに知れているが、マネージャーにもっと節度を持てとうるさく言われているのだ。別に見られたって構いやしないのだが、ねちねちと言われるのは流石に鬱陶しい。同じ男だというのに理解がなくて困る。
(事務所が近いと思ったら萎えてきたなあ)
彼女は色っぽく遊び慣れている感じが今夜の相手に丁度良いと思っていたが段々鬱陶しくなってきた。
さっさとヤって帰ろうかな、なんて考えていると目の前の十字路を男が走って横切っていくのが見えた。残像が瞳に焼きつき思わずその後ろ姿を目で追う。
「ユウ?」
思わず零れた言葉に「誰?」と女が隣で肩に頬を寄せてくる。
辺りは薄暗いがその顔ははっきりと見えた。夕だ。夕が誰かを抱えて必死の形相で走っていた。
(うわ、何あれすんごく面白そうなんだけど)
わくわくどきどきが止まらないといった様子で那智は女を引き剥がすと急用が出来たと言ってあっさり中止を宣言した。
当然女は腹を立て腕を掴んでくるが那智はもう彼女に興味はない。その手を振り払い建物の影に隠れて姿を眩ますと足取りも軽やかに夕が向かった先へ――事務所へと向かった。
夕に初めて会った時の印象はと言うと、静かで冷たく狡猾そうな少年、だった。
決して愛想がない訳ではない。けれど話し掛けても話に乗って来ずあまり笑わない。自分に、というより他人に興味がないのだとすぐに分かった。
普段県外に住んでいる夕とはたまに顔を合わせる程度だが、一度夕と付き合った事があるという女と話をした事がある。同じ事務所に所属しているタレントで自分から告白したものの数か月付き合っただけで別れを切り出したという女だ。
初めは良かったらしい。メールして電話して、夕がこっちへ来る時にはデートもした。しかし会ったのは仕事のついでであるそれだけで、向こうから会いに来てくれた事はない。メールも電話も殆ど彼女からしている。別れを告げた時には引き留めもされなかったらしい。
遠距離はやっぱり駄目だ。付き合っているのに一方通行で虚しい。愛されている気がしない。そう酔っ払いながら彼女が文句を言っていたのを覚えている。因みに彼女とはその後ホテルを共にし何度か抱いたが恋人面されるのが疎ましくなって切った。
彼女の前では「酷い男だね」なんてあたかも彼女の味方かのように振る舞ったが、失敗したのはどう見ても彼女自身が敗因だろう。大した魅力もない癖につけ上がって欲ばかり掻くからいけないのだ。付き合ったからと言って愛されるとは限らないのに。
執着してくる女は面倒で嫌いだ。それはきっと夕もそうだろう。どんな付き合い方をしているのか直接は見ていなくても誠実で優しいタイプではない事は容易に想像出来る。『来る者拒まず去る者追わず』なんて相手が誰でもいい上に興味がない非情者の表れだろう。自分も人の事は言えないが。
その夕が女を抱えて走っているだなんて興味がない訳がない。
電灯の明かりが煌々と漏れる建物の中へ足を踏み入れるときょろきょろと辺りを見回す。どうやらラウンジにはいないようだ。
すぐ後を追えば追いついただろうが女を巻くのに少々手間取ってしまった。けれどそれは大した問題ではない。
「あ、薫ちゃーん」
丁度スタッフルームから出て来た薫を呼び止めると薫は急いでいるのか「あら那智」なんて応えながらも立ち止まってはくれず忙しない。しかし夕の担当である薫がいたのは好都合だ。
「待って待って、ねえユウの部屋どこ?」
教えて、と首をこてんと傾けると薫は助かったと言わんばかりに顔をぱっと華やかせ、ようやく立ち止まったかと思うと那智の下へと駆け寄って来た。
「良かった、丁度私も用があったんだけど今急用で手が離せなくって。ユウは三階の二Aにいるから、これ私の代わりに渡しておいて」
よろしくね、と言って薫は足早に階段を駆け上がっていく。薫はさして美人ではないがにくめない愛嬌の良さがある。俺も薫ちゃんが担当だったら良かったなあ、なんて思いながら何を押しつけられたのかと自分の手元の小さな箱を見て首を傾げた。
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