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35 愉快な夜〈2〉
「おーい、ユウ。俺、那智だけど」
目的の部屋に辿り着くと軽く扉を叩く。しかし返事はなく、那智は唇を尖らせドアノブに手を掛けると扉に鍵が掛かっていない事に気づいた。そっと扉を押すとベッドが二つ、左右の壁に沿って置かれているのが真っ先に視界に映る。
「何だ、いないのかよ」
那智は眉尻を下げ肩を落とす。
(それにしても相部屋なんてユウも災難だな。俺だったら絶対泊まんねえ)
コキコキと首を鳴らしながら部屋の中を見渡し、どさりとベッドに腰掛ける。するとその瞬間、呻き声のような鈍い音が布団の下から聞こえてぎょっとした。迷わず布団をひっくり返して細い目を開く。
「あれ、利人君じゃん」
そこには白いシャツに黒いチノパンツを着た利人が頬を赤く火照らせて横たわっていた。
「こんなとこで何してんの。うわ、顔あっつ。熱? ……ああ、それでか」
利人の頬を指の背で触れると明らかに平熱とは言い難い熱を帯びているのが分かる。
薫から渡された箱には『発熱・痛みに』という文字が大きく書かれている。間違いなく利人に飲ませる為の薬だろう。
「おーい利人くーん。生きてるー?」
声を掛けるも利人は眉を顰めただけで返事はない。那智に身体を踏まれても布団を剥がされても目を開かず全身からは大量の汗を流していた。那智はふうと溜息を零す。
(さっきユウがお姫様抱っこしてたのは利人君って訳だ。何だ、女だったら面白かったのにつまんねえの。男相手に随分甲斐甲斐しいんだな)
じろじろと利人の身体を見下ろし足を組んでベッドの端に腰掛ける。
先日後藤から機嫌の良い電話が来た。丁度利人を後藤のアパートに行かせた夜の事だ。
何があったのやら後藤は利人をいたく気に入っていて、撮りたいなんて言い出すのだから驚いたものだ。後藤とは子供の頃からの付き合いだが、あまりにも好みが偏っているものだから後藤がそんな風に言うのは少し珍しい。
(あの変態めぐちゃんが、利人君をねえ)
正直意外だ。利人のどこを見て撮りたいという欲求が芽生えたのか那智には甚だ理解出来ない。
後藤から撮影意欲に関する話を聞かされた事はあったがあまりにも抽象的かつ複雑で何を言っているのか全く分からなかった。ただやっぱり変態だなという事だけは記憶に残っている。
那智から見て利人は平々凡々、おまけに鬱陶しい位生真面目で見ていると苛々する男だ。
「めぐちゃん、趣味変わったな」
ぽつりと呟いて利人の顔をしげしげと見下ろした。
後藤の興味を引いたという事は彼のツボを刺激する何かがあったのだろうが、生憎那智はこうして利人を見つめてみても何の魅力も感じない。
(それとも磨けば光る的な? 良くも悪くもフツーにしか見えないけど)
夕もご苦労な事だ。病人をわざわざ連れ込むなんてこれでは他のモデルと相部屋になった方がましというものだろう。適当に家に帰せば良いのに、家の場所が分からずこっちに運ぶしかなかったというところだろうか。
「――おい」
その時、やけにドスの利いた低い声が部屋の中に響いた。夕の声だ。
やっと帰って来たかと那智が振り向くと、その間にも距離を詰めていた夕は那智の腕を掴んで捻り上げる。
「いってえ! 何すんだよ!」
「何、とはこちらの台詞です。静かにしてください、病人がいるんですから」
言葉遣いこそ穏やかだがその声音は鋭く厳しい。掴まれた手はすぐに離されたが夕はまるで利人を庇うように那智の前に立ち塞がった。
「利人さんに何してたんですか」
「あ? 別に何もしてねえよ」
そう唇を尖らせるも、怒りの滲んだ凍てつく夕の瞳に那智はむくむくと好奇心を抱く。
(何だ、こいつ)
何か勘違いしてるんじゃないかと思う程夕の態度はあまりに異質だった。
まるで恋敵でも相手にしているようではないか。――そう思い至ると可笑しくてとふっと唇を曲げた。
「これ、薫ちゃんから。要らなかったか?」
薫から預かった小さな箱を見せると、夕ははっとした後「要ります」と言って表情を変えずにそれを受け取る。
「那智さん、用はこれだけですか?」
「ん? ああ、そうだな」
言外に出ていけと言われているのだろう。もう見るものもないし期待に応えて帰ってやるかとベッドから離れるとそこで夕に呼び止められた。
「丁度話があったんです。ちょっと待っててください」
そう言うと夕は扉近くに置かれたビニール袋を掴み利人の傍へ戻る。袋が置かれていたところには見覚えのある青いリュックもあった。トイレにでも行っているのかと思ったが買い出しに出ていたのだろう。
夕は利人の額や首筋をタオルで丁寧に拭くと袋の中から冷却シートを取り出して利人の額に貼る。他にも沢山買い込んだのか、袋の中にゼリーやパンが入っているのが見えた。
そして夕はそっと利人の身体に布団を掛ける。その姿はあまりに健気であり、自分に対する態度とは似ても似つかぬそれに那智は思わず見入った。
「本題ですけど、単刀直入に言います。利人さんにはもう関わらないでください」
利人のベッドから離れ、彼が眠っている事を確認すると夕は声を落としながらそう言い切った。
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