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36 愉快な夜〈3〉
(へえ、そう来るか)
一体何の話かと思えば、まるで保護者じゃないかと那智は内心笑う。
「随分過激なんだな。利人君が俺の事何か言ってたか? こそこそ悪口言ってたんだ?」
「利人さんは悪口なんて言いません。これは俺の独断です」
ふうん、と唇を曲げる。随分過保護な保護者様だ。
「ユウ、自分が何言ってるか分かってるのか? 俺と利人君の関係なんてお前が指図出来る事じゃないだろ。ただお前が気に入らないだけじゃねえか」
「気に入りませんよ。利人さんに嫌な思いをさせた上にいいように利用して、そんなの黙っていられませんから」
夕の静かな怒りが伝わってくる。どうやら随分ご立腹のようだ。
しかし本人ならまだしも、何故他人である夕がそこまで怒るのか分からない。利人とは些細な会話しかしていないのに。
「何の事だかさっぱり分からねえけどお前に嫌われてるって事はよく分かったよ」
「そうですか。その通りですね」
ふ、と鼻先で笑う。夕の事は可愛くない年下だと思っているが、そういうはっきりしているところは割と嫌いじゃない。
「でも分かんないなあ、何で利人君の為にそこまでする訳? 頼まれてもない事をさ。利人君ってユウの何なの? まさか好きだなんて言わないよな?」
なあ、とからからと笑うが夕は真剣な表情のまま視線だけ僅かに下げる。
「マジで?」
恋敵でも相手にしているようだなんて、まさしくそれだった訳だ。
けれどそれならすべての辻褄が合う。
「俺が利人君を襲ってるとでも思って頭に来たんだ? いくら俺でもそこまで見境なくねえよ」
「分からないですよ。それに例えそういう意図がなくても、病人の布団を不用意に引き剥がすのはどうかと思いますけどね」
やっぱりそうなんじゃないかとくつくつと笑う。異常なまでの過保護と執着にも納得というものだ。
「へえ、ユウって男もイケるんだ。いつだか女はいたもんな? でもああいうのがタイプだとは意外だなあ、もしかして利人君ってそっちの人らにはモテるタイプだったりして」
利人の顔を覗き込もうとすると夕がすっと視界を遮ってくる。保護者改め騎士 と言ったところか。
「それ、どういう意味ですか?」
「いやあ、どうなのかなって思っただけ」
眉を顰める夕に那智は肩を竦めてみせる。わざわざ後藤を引き合いに出す事もない。それにこのネタはちょっと取っておきたい気もする。
「でもさあ、よく病人を連れ込もうと思ったよな。普通に連れ込むなら分かるけど? あ、それともそれ目的だったか」
「那智さんと一緒にしないでください」
「だってそれなら家に帰せば良いじゃん。わざわざこっちに運ぶっておかしくない?」
そう唇を尖らせると、夕は面倒臭そうに溜息を吐いてしぶしぶ唇を開く。
「利人さん、ここの近くで働いている最中に倒れたんですよ。寮は遠いけどここは近い。何もおかしくありません」
これでいいですかと言わんばかりに顔を顰める夕に那智はふうんと腕を組んで片腕で頬杖をつく。
何もおかしくないと言うその言葉の胡散臭さに夕は気づいているのだろうか。もし本気でそう思っているのならそれはたちが悪いというものだ。
「言い訳にしか聞こえねえな。仕事中ならそっちの人間に任せりゃいいだろ。何お前が出しゃばってんだよ。ただお前は利人君を独り占めしたいだけじゃねえか」
夕の目が見開かれその瞳が怒りに燃える。唇を噛み締め睨みつけてくるも反論はない。
(図星か)
ふっと笑う。
「利人君も可哀想にな、ユウみたいな重たい男に好かれちまって。そんなんだとウザがられて仕舞いには逃げられるだろうよ」
ひらひらと掌を揺らしてそう言うと、夕の視線は利人へと向けられる。黒い瞳が僅かに細められた。
「そう簡単に逃がさないですよ」
夕はそうぽつりと口を開くと那智の方へ顔を戻し柔らかい瞳から一転眼差しを鋭くする。
「俺は利人さんを守る為なら何だってしますよ。今度あの人に近づいたらただでは済みませんから覚えていてください。――俺、実は喧嘩強いんですよね」
低く告げられる言葉と共にぎちりと腕を掴まれる。痛みと共に骨が軋んだような音がして悪寒が走った。
「分かった、分かったよ。おっかないなあ」
ぱっと手を離されると腕を擦り苦笑いを浮かべる。殴り合いなんて真っ平ごめんだ。それも勝てる気がしない。
「ま、精々頑張れよ」
ぱたん、と扉を閉め踵を返す。
この男は言葉の通り利人の為ならきっと何でもやってしまうのだろう。利人が好きだとバレたのだってきっと大した問題ではないと思っている。
そうでなければ夕はもっと隠し通そうとするだろう。那智が誰かに話すなんて容易に想像出来る筈だ。もしかしたら公になっても構わないと、モデルを辞めてもいいとさえ思っているのかもしれない。
(ま、知らんけど)
掴まれた腕はまだじんじんと悲鳴を上げている。今日はとんでもない目に遭ったものだ。
けど。
「あっ、那智君まだいたの。薬ユウ君に渡してくれた?」
「薫ちゃん、まだいたのって酷いなあ。ちゃんと渡したよ」
ごめんごめん、ありがとうと薫は手を顔の前に立てて舌を出す。方向が同じなのかそのまま並んで歩いた。
「何だかご機嫌?」
鼻歌、と指摘されて無意識に口ずさんでいた事に気づく。
那智はにんまりと唇を曲げてうふふと笑った。
「分かっちゃう?」
やっぱりこっちに来て正解だったと那智は心の中で呟いた。
いつも澄ました顔をした夕が見せた怒りや焦りの素の表情。
何より面白いのは淡泊そうに見えたあの夕が年上の平凡な男相手に本気の片思いをしているという事だ。それもあんなに必死に。思い出すだけで笑える。
利人はつまらないと思っていたが、彼の何が夕をあそこまで執着させるのか興味が湧いてきた。
(でも利人君には近づくなって言われちゃったしなあ)
薫と別れ外に出ると明かりの漏れる事務所を見上げる。
その表情は困っているようでも不満があるようでもなく。
「ああ、愉しい」
他人の不幸は蜜の味、なんてよく言ったものだ。
人を引っ掻き回して困らせる事の何と愉快な事か。
弾む鼻歌と軽い足音だけが静かな夜に響いた。
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