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61 湯けむり温泉旅行〈1〉
桜が散り、藤も見頃をとうに過ぎた六月。月の半分も過ぎたその頃には紫陽花も見慣れたものとなっていた。
(何とか雨は止んだか)
新幹線と電車を乗り継ぐ事二時間弱。少しばかり大きい鞄を携え駅の改札を抜けた夕は開けた出口に立ち薄っすらと太陽の覗く空を見上げた。山に囲まれた澄んだ冷たい空気に目が冴える。朝から雨が降っていたから心配だったものの、この様子では当分晴れてくれそうだ。
夕はポケットからスマートフォンを取り出すとすすすっと親指を軽快に動かす。到着を知らせるメールを利人に送ると、数分と待たずに返信が来た。
『分かった。あと十分位で着くから待ってて』
夕はほくそ笑むと近くのベンチに腰を下ろした。頬が緩んでしまうのも仕方ない。夕は今日のこの日をずっと楽しみにしていたのだ。
連休以来、利人とは時折連絡を取り合い『友人』としての関係を保っていた。利人が『忘れよう』と言った通り件の事に関して互いに触れる事はない。つくられた平穏を享受しているかのようなとても穏やかな状態だった。
そしてその中で『遊び』の計画は着実に進んでいき、樹が温泉に入りたいとぼやいたらしく『遊び』は『旅行』へと発展した。新潟の越後湯沢、長野の渋、栃木の鬼怒川等々候補が上がるも最終的に決まったのは神奈川と新潟の丁度真ん中に位置する群馬は水上だ。
一泊二日、大自然での水上温泉旅行。
利人と、温泉旅行。
そのパワーワードにこの計画を聞いた時酷い眩暈を覚えた。願ってもない、しかしこのタイミングで旅行。それも温泉。
一体この人はどういうつもりなのかと頭が痛くなった。普通自分を好きな相手を温泉に誘うか?
下心があるのなら別だが悲しい事にその可能性はゼロに等しい。ああ、痛烈なまでに悲しい。この前の事があったばかりだというのに、この人はどうしてこうわざわざ自分から襲われにいくような真似をするのか。
もしかするとあんなに分かりやすい行動をしたにも関わらずこの気持ちは利人に全く伝わっていないのかもしれない。いやそんな馬鹿な、と思ったが利人ならあり得るのかとこれまでの自分の行動を思い返して頭を抱えた。
けれどそうだとしても利人の危機感のなさには言葉もない。試されているのか、そうなのかと苛立ちが込み上げたが温泉旅行という魅力に結局逆らえず承諾してしまい今に至る。
「温泉、入れんのかな……」
湯けむりと裸の利人。悪くない。良い。しかし下手をすると自分の下半身が反応してしまう訳で。
利人に会うのはバス停で別れて以来だ。この二か月弱、塾や家業の手伝いで忙しかった事もあり東京でのモデルの仕事は一度もなかったのである。
だから高校生のあり余る性欲が爆発してしまってもおかしくない訳だが、そこは単純に頑張って耐えるしかない。
何たる苦行か。
「ユウ!」
名前を呼ばれはっと顔を上げるが、それは期待していた声でもその相手でもない。
辺りを見回すと少し離れた場所にツバの広い帽子を被り大きなサングラスを掛けた茶髪の背の高い女がこちらへ向かっているのが見えた。その隣では地味な眼鏡を掛け顎の高さで切り揃えられた黒髪の背の低い女が並んでいる。
随分対称的な二人だが、夕は派手な方の女を知っていた。
「楓さん?」
ハァイ、と外国人被れの挨拶と共に楓はサングラスを傾けて片目を閉じる。
「何だ、ユウったら来てるんじゃない。来ないって言った癖に」
「はい? 言っている意味がよく分かりませんが」
さあ行こう、と腕を引っ張られその手をやんわりと振り解く。眉を顰める夕に楓は不思議そうに首を傾げた。
「何言ってんの、旅行行こうって誘ったでしょ? だから来たんじゃないの?」
猫のような目をぱっちりと開き伺ってくる楓に夕は一瞬の間の後、ああそうかとやっと納得して眉間の皺を緩める。
すっかり忘れていたが楓には旅行に誘われていた。鼻から行くつもりなどなかったから詳細の連絡を受けても流し読みするだけで全く意識していなかったが、どうやら旅行の行先も日程もこちらと被っていたらしい。
「すみません、俺は別件でして」
「えー、そうなの? どうせだから後で合流しない?」
すみません、とすっぱり断ると楓は残念そうな顔をするも呆気なく引き下がり、じゃあねと手を振って去って行った。隣の女は楓の友人か、一瞬合った目はつんと澄ましている。
ファン、と音が鳴り振り返ると広い歩道の奥、バスターミナルと車の乗降場を兼ねた道路にシルバーの車が停まった。助手席の窓が開いて樹が顔を出す。
「夕、こっち」
「樹さん。ご無沙汰してます」
樹は黒縁の眼鏡を掛け直しながら、座れと顎で合図をする。相変わらず素っ気ない青年だ。
樹は利人との共通の知人という事で、利人と寮の話題になると時々その名前を聞く事がある。とは言っても樹とは数回顔を合わせただけで全く親しくはないのだが。
「利人さん」
後部座席の扉を開けると奥に利人が座っているのが見えて思わず口元が緩んだ。車に乗り込むと利人との距離がぐっと近くなる。
今回利人達三人はレンタカーを借りてここまで来たようだ。その方が移動も楽だし相乗りだから経済的らしい。
「久し振りだな」
そうですね、と返す声が思わず弾む。先程まで抱いていた緊張や不安は一瞬で吹き飛び、ただ利人に会えた事に心が躍っていた。
「君が夕君? 初めまして、篠原沙桃です。明日までよろしくね」
運転席から身体を捻らせ手を差し出してくる金髪碧眼の青年に夕は僅かに目を見開いた後頷いて握手を交わす。
沙桃に関しては利人から聞いていたからその特徴的な容姿については知っていたが、想像よりずっと整った顔立ちをしていて少し驚いた。仕事柄顔の良い人間は見慣れているが、その中にいても何ら遜色ない容姿の良さだ。その上感じも良い。
成程、要注意。
「初めまして、白岡夕です。どうぞよろしくお願いします。皆さん寮に住んでるんですよね」
「うん、僕はこっちのいっくんと部屋が同じでね。皆お腹空いたでしょ? とりあえずお昼ご飯にして、それからペンションに行こうか」
時刻は丁度昼時だ。沙桃の提案通り近くの蕎麦屋で昼食を取ると、山の中車を十五分程走らせ一軒のペンションに辿り着いた。
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