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62 湯けむり温泉旅行〈2〉

 青い屋根が特徴的なこじんまりとしたそのペンションは、やや古いながらも味わいがあって丁寧に手入れがされていた。脇に車を停め中に入ると心地良い木の匂いが肺一杯に充満する。 「僕ら管理人さんに用があるからちょっと行ってくるね。リイ、建物の中夕君に案内してあげてよ。部屋に荷物置かなきゃいけないし」 「えっ。でも沙桃……」  縋るように戸惑いの表情を浮かべる利人に沙桃はにっこりと微笑んでぽんと肩を叩く。そして利人の耳元に沙桃の唇が近づき何事か囁くと、利人は眉尻を下げて唇を噤んだ。その頬がほんのり赤く染まる。  夕はその様子を目を見開いて見つめていた。 (な、何。沙桃さんと距離近いし。何話したんだ)  静かにずんと肩が重くなる。何やら二人は親し気だ。  不安が募る中、よろしくねと沙桃と樹は奥へと進みどこかへ行ってしまう。 「えーっと……」  ぽつりと二人取り残され、利人は困ったようにわしわしと後頭部を掻いた。 (何か、やっぱり変だ)  初めはつい気分が高まっていたから気づかなかったが、改めてよく見ると利人の様子は少しおかしい。  大きな変化ではない。けれど何となく元気がないように見えた。口数も少ないし、目が合うと高確率で逸らされる。 「利人さん、荷物は?」 「ああ、それは」  旅行だというのに鞄のひとつも持っていない利人にそう問い掛けると、一瞬目が合った後すぐにぱっと逸らされる。ほら。 「えっと、俺達予定よりかなり早く着いたから先に来てたんだ。荷物は二階の寝室。こっちな」  すっと先を歩く利人に続いて中に進んでいく。暖炉のある小さなラウンジを抜けて建物の中心にある階段を上っていくと左右二つずつの扉が視界に映る。二階はすべて宿泊部屋なのだろう。  利人が右手奥の扉を開け、中に入っていくのに倣い夕も足を踏み入れる。  すると正面の窓から差し込む太陽の光の眩しさに思わず目を瞑った。反射的に目元を翳した右手の隙間から見えた部屋は明るく、広い窓の両脇を飾る緑のカーテンが視界に映る。その下には壁一面棚を兼ねた机が取り付けられており、端の方に誰かの鞄が置かれている。  そして綺麗にベッドメイキングされたベッドが二つ。 「相部屋ですか」  二人部屋か四人部屋といったところだろうとは予測していた。特別広くはないが狭くもないその部屋は山荘にしては小奇麗な方なのだろう。フローリングの床を軋ませて中へと進み窓の外を覗くと青々とした空が木々の上に広がっている。 「部屋割りはもう決まってるんですか? じゃんけんで決めるとか?」 「あー……いや、それはもう決まってるっていうか」  言葉を濁し言いづらそうに俯く利人に夕は僅かに眉を顰めた。本当に今日の利人は変だ。  初めは体調が良くないのかとか寝不足だろうかなどと心配もしたが、これはどちらかというと避けられていると考えた方が自然だろう。 (まあ、身に覚えはあり過ぎるんだけど)  それでも、やはり傷つくものは傷つく。  利人はそわそわと落ち着きなく首筋に触れていると意を決したように唇を薄く開いた。 「お前の部屋はここ。……俺と、同じ」  そう口にした瞬間、ぶわわと利人の顔が真っ赤に染まった。耳まで赤くした利人の反応に夕は目が点になる。 (え。何、その反応)  ぶわ、と釣られて夕もまた顔が紅潮する。  だって今までそんな反応見た事がない。いや、初めて会った時悪戯にキスをして真っ赤になって怒らせた事はあったか。いやいや、それでもこんな事で。夕にとっては全くこんな事ではないが、少なくとも夕が知っている利人はこんな反応を見せるような男ではない。 (だって、これは)  完全に意識されている。  それもきっと好意的な意味で。  まさか、とは思う。だって避けられていた筈だ。それでももしかしてと期待が膨らんでしまう。  そわそわと落ち着かない利人の左腕には、キャメルのブレスレット。 「利人さんと」  ぽつりと呟くと利人は弾けたように顔を上げ、待てと言わんばかりに慌てて両手を広げて前へ突き出す。 「ご、ごめん! 勝手に決めちゃって。さ、沙桃が樹さんと同じ部屋が良いって言うし、樹さんも沙桃以外と同室は嫌だって譲らなくて。ここ、一人部屋ないし他の部屋は空いてるけどどっか壊れてるとかで貸し出してなくって」  それで、とぎこちなく利人の視線が下がる。  三秒。今日一番長く目が合った。  思えば利人は人の目をよく見る方かもしれない。だから余計つれなく見えてしまう。 「俺は平気ですよ。利人さんが良いのなら」  じっと利人の顔を見つめて様子を伺う。少しの変化も見逃さないように。 利人は何事か紡ごうとしたのか唇を薄く開いたままぴたりと表情を止める。そして行き場をなくした両手は緩く指を曲げると身体の横に下ろされた。 「そうだよな。別に、何も問題ないよな。――じゃあ、荷物置いて下に行こう。沙桃達が待ってるかもしれないし」  今度は真っ直ぐに視線が交わる。もう不自然に逸らされはしなかった。 (好きって言ったら、利人さんは何て答えるのかな)  ごめん、という言葉はもう聞きたくない。  それでも少しでも揺れる気持ちが見えたなら、その時はきっともう遠慮はしてやれないのだろう。

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