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63 花に風〈1〉

「今日はのんびりサイクリングして身体を動かしたら近くの温泉で汗を流します。そして明日はレイクカヌーをします」  ラウンジでは缶コーヒーを片手に休憩しながら沙桃による旅の計画が説明されていた。 今夜このペンションに泊まるのは夕達だけで他には誰もいない。たまに管理人である初老の男が顔を出すが、基本的に事務室にいるかペンションの裏手にある別棟の建物にいる為ほぼ貸し切り状態だ。音楽も掛かっていないからとても静かで、控えめに葉の擦れる音や鳥の鳴き声が聞こえる程度だろうか。 「へえ、カヌーって俺初めて」 「ラフティングとかキャニオニングも楽しそうだけどね。知ってる? 激流の中ゴムボートで川を下るのがラフティング、身体ひとつで川に流されたり滝壺に飛び込んだりするのがキャニオニング」  利人と沙桃の会話に樹があからさまに嫌そうな顔をする。どうやら樹はアウトドアタイプではないようだ。華奢な身体つきからしてもイメージ通りだ。 「俺ここにいる。温泉行く時迎えに来て」 「だーめ、いっくんも参加してください。サイクリングは坂道のないコースもあるしカヌーもキャニオニングとかに比べたらずっと易しいよ。ゆっくり景色眺めてさ、意外と楽しめると思うんだけどな」  ね、と沙桃が身を乗り出しにこやかに微笑む。すると樹は顔こそむっとしているものの観念したようで、仕方ないなとぼそりと呟いて不機嫌な顔のままコーヒーを啜った。その様子を見て夕は少し驚く。 (この沙桃さんって人、随分樹さんに気を許されてるんだな)  よく手懐けてる、と言うとまるで樹が獣か何かのようだが実際その言葉がしっくりと当てはまる。沙桃は穏やかで優男という印象があるが意外と芯が太く押しの強いところがあるようだ。  それに注意してよく見てみると、要注意人物だと思っていた沙桃は利人よりも断然樹と親しい事が分かった。二人のパーソナルスペースが明らかに近いのだ。そういう関係だとしたら納得こそあれ驚きはしないだろう。憶測とはいえ夕は少し安堵するのだった。  ペンションを後にすると車で山を下り景色の綺麗な湖畔に着く。湖畔の周りがぐるりとサイクリングコースになっていて、公園も兼ねている事から家族連れやグループで来ている人達がちらほらと見受けられた。  この時には地面は大分乾いていて、借りた自転車のタイヤが泥を巻き込む事もない。夕達四人は最初同じコースで走るも時間を決め二手に分かれた。  夕は利人と走っていたものの、自転車を漕いでいると当然口数は減る。景色は綺麗だけれど、つい利人の背中を目で追っていた。 「あそこ、ちょっと寄ってこうか」  ブレーキを踏んだ利人の指さす先には『あじさい園』という看板の掛けられたビニールハウスがある。自転車を降り中に入ると青、紫、桃色、白、色とりどりの紫陽花が鮮やかに咲き乱れていた。  綺麗ですね。そうだな。そんなありきたりな会話を交わしまた静かになる。  何か話さなきゃ。何を話す。今、このビニールハウスには二人だけ。  二人きりだ。 「利人さん、俺の事避けてますよね」  びく、と利人の肩が小さく跳ねる。背中を向けているから表情は見えないけれど、答えは背中が語っていた。 「そんなつもりは……」  やや振り向いた利人は伏し目がちに言い淀む。  不安そうな、怯えたような深い赤。 「俺が怖いですか?」  僅かに利人の瞳が見開かれ、黙ったまま真っ直ぐ視線が向けられる。  違うと言ってほしかった。  溜息を零す夕に、利人ははっと我に返ったように慌てる。 「あ……ち、が」 「でも、今回誘ってくれたって事は少しは俺の事好きなんですよね?」  茶化すように微笑んでみせると、利人は俯いた後目を細めて顔を上げる。笑い切れていない、不器用な微笑みだ。 「心配するな。夕は大事な友人だから、……だから、こっちの事は気にしなくていい」  最後の一言がどういう意味なのか分からず眉を顰めると、利人はふっと苦笑いを零して順路に足を進める。 「夕は今日新潟からこっちに来たんだよな」 「そうですけど」  夕も利人の後を追い掛ける。歩みはゆっくりと、赤褐色の瞳は紫陽花へ向けられる。 「そっか。もしかして東京から来たのかと思った。綺麗な人といるの見たから」  はたと記憶を辿り、それが楓の事だと思い至る。ただ偶然会っただけだと説明すると、利人はふうんと素っ気ない返事をした。 (何だ)  ざわざわ、ざわざわ。  嫌な胸騒ぎがする。

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