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64 花に風〈2〉
「良いよ、こっちはいつでも抜けて」
振り返りながら利人がそう告げて、夕は何を言われているのか分からず返事をしそびれた。それを受け取ったものと判断したのかどうなのか、利人は言葉を続ける。
「あの人モデルだよな。前、夕と撮影してた人。白取楓さんって言うんだっけ? すっごく美人だし雰囲気の良い人だよな。良いなあ夕、羨ましいったらないよ。今度紹介しろよな。彼女とはいつからの付き合いなんだ?」
なあ、と顔を覗き込んでくる利人の言葉を夕は信じられない気持ちで聞いていた。
(良いなあ? 羨ましい? ――紹介しろ?)
声を弾ませる利人に夕はショックを覚えていた。
利人が特定の女と近づきたがるような発言を初めて聞いた。ああいう人がタイプだとでも言うのか。
じわりじわりと、苛立ちが腹の下から込み上がって来る。
「意外だな、利人さんってミーハーだったんだ」
小さなそれは少しずつ膨らんでいく。言葉に出てしまう。棘の生えた言葉を吐き出す事を止められない。
「あの人に近づこうたって痛い目を見るだけですよ。楓さんにその気なんて起こらないでしょうから」
「え? そんな事、分かってるけど」
苛々していた。
利人が何を考えているのか分からなくて、少しでもぬか喜びしていた自分が惨めで嫌になる。
募り募って、そうして、ぷつりと切れる。
「利人さん、あんたさあ。今更女抱けるんですか?」
目だけが笑っていないような顔で、相手が傷つくであろう言葉を的確に選ぶ。
この時の自分はとても冷静ではなかった。それは言ってはいけない言葉だった。
「誰かを忘れる為にどこぞの女を好きになるのは構いませんけど楓さんは止めてください。俺があげたブレスレットをつけておいて俺をダシにしようなんて、利人さん良い根性してますね。わざとですか? ああ、でも無自覚なら尚更たちが悪い」
何が悲しくて好きな相手に女を紹介しなければならない。そんなのまっぴらごめんだ。
本当は誰にも奪われたくないのに。誰の姿もその目に映させたくはないのに。
こんなに好きなのに、どうして振り向いてもらえないのだろう。
どうして、俺じゃないのだろう。
「何を勘違いしてるのか知らないけど」
利人の声が低く震えている事に気づいて、はっと顔を上げる。
「お前が楓さんを大事にしてるって事はよく分かったよ。邪魔なんてしないから安心しろ」
もう、気づいた時には手遅れだった。
悲しそうな瞳で薄っすらとぎこちなく微笑む利人の姿を見て、自分がとんでもなく酷い事を言ってしまった事にようやく気付いた。
「り、利人さ、」
「俺、ちょっとひとりで走ってくる」
ビニールハウスを出て行こうとする利人を夕は咄嗟に呼び止める。しかし足を踏み込んだ途端間髪入れず利人の張り詰めた声が響いた。
「ついて来るな」
さあ、と青ざめる。足早に出口を抜けて行く利人に一瞬気圧され、それでもすぐに地面を蹴った。ついて来るなと言われて、大人しく立ち止まってなんかいられない。
「利人さん、待って!」
逃がしては駄目だ。利人こそ勘違いをしている。彼の言い分では、まるで自分が楓の事を好きみたいだ。
そうじゃないのに。だって好きなのは、
(俺が、好きなのは)
ビニールハウスを出ると、目の前に人の波が現れ思わずぶつかりそうになった。十数人程の中年の男女が集まった彼らは恐らくツアー客なのだろう。ぎりぎりのところで踏ん張り衝突は避けられたが、そうしている間にも視界の端を自転車に乗った利人が走り抜けていく。
くそ、と舌打ちをして人の波を掻い潜り急いで自転車に跨った。すでに見えなくなってしまった利人の後を必死で追う。
ただ謝りたい一心で全力でペダルを漕いだ。許してはくれないかもしれない。それでも話さないといけない。
すぐに追いつくと、この時は信じていた。
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