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65 花に風ー利人ー〈1〉
「無理。やっぱり無理。考え直してくれませんかお願いします」
車の後部座席に座った利人は前の座席に座る沙桃と樹に必死の形相で懇願していた。
「却下」
「別に良いじゃない、夕君と同室。ベッドもちゃんと二つあるよ?」
バックミラーに映る利人を瞳だけ動かしてちらりと見た樹はたったの一言で一蹴し、ハンドルを握る沙桃の返事もつれない。
ペンションに着いた後部屋割りを一方的に言い渡された利人はぎょっとして交渉を試みたが、沙桃と樹の気持ちが変わる事はなかった。
「別に僕の同室相手がリイか夕君でも構わないけど、僕らいつも一緒に寝てるからどっちかのベッドの隣で始めちゃうかもしれないけど」
それでも良いなら良いよ、と脅迫紛いの事をさらりと言ってのける沙桃に利人はもうそれ以上何も言えなかった。すべては宿泊施設の予約を沙桃に任せていた自分も悪いのだ。
そもそも温泉旅行自体利人は気が進まなかった。だってそうだろう。温泉旅行という事は皆で、夕と裸で温泉に入るという事。裸を見るし、見られるのだ。
別に男同士なのだからどうという事はない。そう思えたのは少し前までの話で。
(緊張する……)
この気持ちを自覚して以降、ゆっくりと長い時間夕と顔を合わせるのは今回が初めてになる。緊張して上手く話せないかもしれない。そのリハビリを込めて日帰りでアウトドア程度なら丁度良かったのだ。
けれど沙桃と樹の押しの強い事。利人の言う「それはちょっと」なんて曖昧な提案はすげなく却下された。遠出の旅行なんて樹こそ嫌がりそうなのに、あれで温泉好きらしく移動も車に座ってるだけだからか案外まんざらでもない様子だ。
(夕と同じ部屋か)
正直なところ、嬉しい気持ちはある。少しでも長く一緒にいられるのだから。
けれどまたあの日のように同じ部屋二人きりで夜を明かすのは気まずいものがあった。
変な事は起こらないだろうと分かっていても、それでも想像するだけで心臓が潰れそうになる。果たして眠れるのか。息すら出来ないんじゃないか。
期待なんてしていない。そう思う頭のほんの片隅、裏側では何かが起こる事を望んでしまっている自分もいて。
そんな浅はかな自分を殴りつけたくなる。
「胃が痛くなってきた」
「何とかなるって。ほら、もう駅に着くよ」
赤信号で止まった車の先には駅名の入った建物の正面が見える。信号の先頭で、かつ横断歩道を渡る人は殆どいない為駅前の様子がよく見えた。
思わず身を乗り出し夕の姿を探す。さっき来たメールではもう着いていると言っていた。中で待っているのだろうか、髪の長い女の姿はあれどそれらしい人影は見つからない――そう思ったその時、彼女の影から少年の姿が、夕が見えた。
「どうして」
ぽつりとそう呟くと、不審に思った樹が利人の視線の先を追う。そして数秒後、ほうと目を細めた。
「夕、女といるな。誰だ? あれ」
「顔がよく見えないですけど、多分あの人……夕の彼女です」
遠くてよく見えない上にサングラスで顔も隠れているが、それでも十中八九彼女だと雰囲気で分かってしまう。
白取楓。この前も電車の中釣り広告でその顔を見た。綺麗で、明るくて、きっと誰からも愛されるのだろうと思わせる雰囲気を持つ人。
へえあれが、と沙桃が興味深げに口を開けば樹は面白くなさそうに眉を顰める。
「女同伴なんて聞いてねえけど。どういうつもりだあいつ」
樹の言葉にどきりとする。
(夕が連れて来た?)
重い空気が身体に纏わりつく。不安と緊張を抱えながらも楽しみにしていた気持ちは一転暗く重苦しくなった。
「男同士の遊びに恋人を連れて来て紹介するっていう人、いるよね」
「しょ、紹介……?」
びくりと肩を揺らす利人に、沙桃はふふと笑う。
「なーんて、わざわざ男しかいない旅行先に連れて来ないでしょ。たまたま向こうも用があったんじゃない?」
ほら、もう一人女の子いるし。そう沙桃に言われ目を凝らすと、初めは意識せず気づかなかったが一歩離れた場所に黒髪の女が立っている事に気づく。信号が青に変わり車が発進した時には彼女達は夕から離れどこかへ行ってしまった。
「たまたま、ね。差し詰め向こうも予定合わせてきたってとこじゃねえの。夜辺りあいついなくなってるかもな」
こら、と沙桃が樹を窘める。
(あの人に会いに行く?)
ぐっと拳を握り締める。
出ていく夕を止める権利も、そうするつもりも利人にはない。そういう選択をしたのは自分だ。
そう頭では分かっていても、寂しいような、苦しいようなもどかしさがそっと利人の心を覆った。
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