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66 花に風ー利人ー〈2〉
「利人さん」
そうして会ってみれば久し振りに近くで聞く夕の声に、夕の姿に心臓が騒いだ。どきどきして、全身を血が巡っていくのが分かる。
(ああ、駄目だ)
目を見るのが怖い。
結局彼女の事も聞けなかった。
「リイ、建物の中夕君に案内してあげてよ」
沙桃にそう告げられ、部屋割りの事を思い出した利人は躊躇った。そんな利人の様子を見て沙桃は大丈夫と小さく呟く。
「いっくんが言った事は忘れて。いっくん、適当に言っただけだから。それより夕君と二人でいる時間を楽しみなよ。今回はその為の旅行でもあるんだしさ」
困ると、そう思う一方で沙桃の気遣いが嬉しくもあった。
自覚する。夕を好きな自分を。
自分が思う以上に意識している事を。
「お前の部屋はここ」
だからこの言葉を紡ぐのさえ緊張した。顔が熱く火照って止まらない。
こんな事で身体全部火を吹いたような気分になる。『普通』にと意識すればする程構えてしまって平静を保てない。変に思われていないか、この気持ちが伝わってしまっていないかと不安になる。
けれど。
「俺は平気ですよ。利人さんが良いのなら」
夕のその言葉を聞いた途端、すとん、と何かが自分の中に落ちて妙に落ち着くのを感じた。
(そうだった。『それ』が普通だった)
何を緊張して、何を期待していたのか。同じ部屋だからって何かが起こる筈もない。
夕は自分と二人きりになっても平気なんだから。それが当たり前で、おかしいのは自分だけだった。
そう思うと冷静になれた。良かった、ずっと変に緊張してしまっていたけれどようやく頭が冷えた気がする。夕とも、多分普通に話せている。
本当に、良かった。自分ではそう思っていた。
「俺が怖いですか?」
どきりとした。
優しくされる事を、嫌われる事を恐れていた自分を見透かされたようで。
けれどそれが勘違いをさせる反応だと気づいて慌てた。慌てて、また冷静な判断が出来なくなる。
俺の事好きなんですよね、なんて友情という意味の軽口だっていつもなら分かるのに。『好き』という言葉に敏感に反応した頭は要らない言葉を口にした。
それからはもう、止まらなかった。
良いなあ、羨ましい、紹介しろよ――なんて。思ってもいない事をへらへらと喋って無理矢理笑顔を繕った。どこかで聞いた男同士の浮ついた会話を頭の片隅に思い浮かべて、そうこんな感じ、と再現して。
けれど本心ではないからだろうか。自分の言葉があまりにも白々しくて、何て気味の悪い。
その気味の悪さが夕にも伝わったのだろう。彼を怒らせてしまった。自分の女に近づくなという牽制をされた事が胸を鋭く突き刺す。
言われなくてもその気なんてない。女の人を抱きたいとも思っていない。
(だってこの性欲は、自分が、求めてしまうのは――)
夕はあの人を愛している。怒りを露わにする程に。
どうして平然としていられないのだろう。表情だけでも繕えないと、夕の傍にはいられないのに。
形にならない衝動をただただペダルを強く踏み込んでぶつけた。吹き込む風が冷たく頭を冷やしてくれる。
そうして我武者羅に走るのも疲れてきた頃、突然車輪が跳ね上がり身体が宙に浮いた。この時には自転車のスピードは落ちていてすぐにブレーキを踏むと何とか転倒は免れたが、異変を感じて前輪を見るとパンクしている事に気づいて顔を顰める。
「ああ、もう」
どうやら尖った石の塊に乗り上げてしまったらしい。溜息と共に仕方なく自転車を押して走ってきた道を戻る。
夕に追い付かれないよう脇道を通り山の道路を下っていたから、傾斜の緩い坂道とはいえ重くなった自転車を押して登るのは骨が折れた。
「何やってんだろ、俺……」
逃げてしまったけれど、お蔭で頭はいくらか冷やせた。
夕に会ったら謝ろう。大丈夫、きっとすぐ仲直り出来る。
けど、今はまだ会いたくない。
「なあ! ちょっとあんた!」
その時、背後から声を掛けられ振り向くと予想外の人物がそこにいた。
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