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新たなる挑戦6
アピールするように上目遣いで何度も瞬きする女に、宮本は眉根を寄せた。
「俺はもう、白銀の流星じゃないです。乗ってる車も違いますし……。今は三笠山のインパクトブルーなんです」
(――以前一緒に見た、夢の中の出来事で使った言葉を、現実に持ち出しやがった!)
驚く橋本を尻目に、宮本は微笑みながらインプのボンネットを愛おしそうに撫でる。
「重量のあるその車で、私のワンエイティにちゃんとついてこられるかしら?」
「陽さんとふたりなら、きっとついていくことができます」
宮本はハッキリと言い切った。普段は見せない頼もしさを感じさせるその横顔に、橋本の胸は高鳴り、頬が赤く染まる。
「まーくんってば挑戦的なんだから! だったらついてきて。スタートするときに、クラクションを鳴らしてあげる」
女はちらりと橋本の様子を見たあとに愛車に戻り、派手にアクセルをふかす。
「陽さん、行こう!」
宮本は運転席のドアを開け放ちながら、爽やかに微笑む。赤ら顔を隠すように俯いた橋本は返事をせずに、慌てて助手席に乗り込んだ。インプに乗ったふたりがシートベルトをして出発できる準備ができたのを確認してから、ワンエイティがゆっくり発進する。
「雅輝は走ることになると、マジで挑戦的になるよな。見ていてハラハラする」
「走ることだけじゃないっスよ。陽さんを責めるときも、ここぞとばかりに――」
「あー、はいはい。そうですね!」
「陽さんありがと。くだらないやり取りして、俺の緊張を和らげてくれて」
橋本があらぬところを見ながら腕を組むと、宮本の顔がだらしなく緩んだ。
(これからバトルするっていうのに、コイツときたら――)
助手席からそれを横目で眺めつつ、橋本から弾んだ声をかける。
「なんだ、雅輝らしくないな。いつも空気の読めないおまえが悟るなんてさ」
ふたりが他愛のない会話を交わす間に、インプは峠の頂上の入口に到着する。目の前でワンエイティが、派手なクラクションを鳴らした。
「陽さんの気遣いくらい、俺にだって読めますよ」
「気遣いじゃねぇよ。愛だ」
優しい橋本の声が、宮本の胸にじんと染み渡った。
「雅輝、出遅れてる。あの女にハンデをやったつもりか?」
「違うよ。陽さんの愛を、もう少し噛みしめたかったんだってば」
宮本はインプのシフトレバーをいつも通りに操作しながら、ゆっくりと峠を下りていく。ワンエイティは傾斜を利用してスピードを上げ、かなり前方を走っていた。しばらく直線の続く道路だと宮本の頭で記憶していたので、思いきってアクセルを開けて走行した途端に、ワンエイティが少しだけ対向車線へとはみ出る。
なにがあった? とふたりが考える間もなく、宮本は慌ててブレーキを踏みながら対向車線にハンドルを切ったが、間に合わなかった。
「くっ!」
下りでスピードがノっているせいで、大きな陥没の縁にタイヤがとられて、車体が大きく弾む。思わぬ衝撃に、橋本の額から汗が滲み出た。
「雅輝、悪い。気づかなくて」
「しょうがないよ。薄暗がりで視界が悪い上に、雑草が覆いかぶさって穴が隠されていたし。でもこういうのがあるから、地元の走り屋には敵わないんだよな」
その後、たくさんのタイヤ痕のついたS字のコーナーを、二台とも難なく華麗にクリアした。
「敵わないと言ってるくせに、勝つ気でいるんだろ?」
「車種は違っていても、所詮車は車。同じように真似して走れば、これ以上離されることはないと思う」
左手親指を立ててみせた宮本の余裕のある表情に、助手席にいる橋本の顔に笑みが零れる。離されることはないと言ってのけた宮本が、宣言どおりにやることがわかったから。
「雅輝が攻略できなかったところって、もしかして大きな急コーナーだったりする?」
完璧に峠を走りこなす宮本が、過去に攻略できなかった場所を、橋本なりに特定してみた。それは三笠山にはない、かなり大きなカーブだった。ヒルクライムではアクセルを開けながらコーナーに沿ってひた走ればいいところだが、ダウンヒルになると様子が一変する。
「それくらい、陽さんにもわかっちゃうか」
「どんなコーナーだって派手なドリフトかますおまえでも、あのコーナーは難敵だろ。急コーナーの手前は、今より傾斜がさらになくなってなだらかになるお蔭で、スピードがまったく乗らない。それなのに大きな急コーナーでドリフトするには、ある程度のスピードが必要だから――」
「急コーナーまでスピードを殺さずに、すべてのコーナーをクリアして突破しないと、ドリフトが途中で止まっちゃうんだよ。一か所でもミスったらコーナーの三分の一で止まっちゃうという、格好悪い姿を晒すことになる」
橋本の言葉を攫うように宮本が続けて、その後に訪れるであろう真実を告げた。
「雅輝はドリフトが好きだから俺はこの場所を教えたが、まさかあの女に絡まれることまでは想定できなかった」
目の前を何事もなく悠然と走行するワンエイティを、橋本はため息混じりに眺めた。宮本に負けるとも劣らないその走りは、見ていて惚れぼれするものがあった。
「公道というところで、限界を超えたスピードで走れる場所は限られているし、それはしょうがないよ」
「しょうがなくねぇって! あの女、俺の雅輝に色目を使いやがって」
自分ができない走りに、女性の躰を武器に使いながら宮本に媚を売った女の行動を思い出し、橋本の中に苛立ちが自然と募っていった。
「陽さん……」
「あからさますぎるんだよ、さっきの態度!」
橋本は忌々しげに告げるなり、ぷいっと顔を背けた。
「そんなふうにヤキモチ妬かれたら、今すぐ抱きたくなる」
ベッドでよく聞く宮本の掠れた低い声が、エンジン音に混じって橋本の耳に届いた。
「は?」
信じられない言葉に、背けていた顔を宮本の横顔に貼りつけると、目尻がデレっと垂れた、いつも以上にだらしない顔を晒しているのが、橋本の目に映った。
(連続した難解なコーナーを、高速で攻めながら言うセリフじゃねぇだろ。相変わらず、クレイジーなヤツだな……)
口元を引きつらせた橋本は左手でアシストグリップを握りしめ、右手で自身のシートベルトを握りしめた。車窓は目まぐるしく景色が変わり、横からいやおうなしに重力がかかってくる。必死に足元を踏ん張っても、躰がどうにも不安定だった。
しかもコーナリングのたびに聞こえてくるタイヤのスキール音が、インプの悲鳴のように峠に響き渡る。
「陽さんのシートベルトを外してから、助手席のシートを最大限に倒して、陽さんが着てるシャツのボタンを引きちぎってそ――」
尋常じゃない状況を楽しむようにハンドルを右に左に操作しつつ、卑猥なセリフを言い続ける宮本に、橋本は眩暈がしそうになった。
「おいおい、この車でおっ始める気かよ?」
「さっき陥没の端っこを引っかけたときに、インプが大きく揺れたでしょ」
「揺れたというよりも、車体が跳ねただろ」
橋本の躰に浮遊感を感じたからこそ、車が跳ねたと言葉にした。
「実はその揺れで、エッチなことが頭を過ぎっちゃった」
「おまえ……」
「早く帰って陽さんとシたい。そう思ったら最短距離で走るラインが、キラキラ光って見えるようになった」
「なんだよ、そのきっかけ。おかしすぎるだろ」
思ってもみなかったセリフで心底呆れまくる橋本を尻目に、宮本は嬉しそうにカラカラ笑った。
「その光るラインの上を走るのには、結構シビアなハンドリングやアクセルワーク、ブレーキ操作に繊細なクラッチ操作をしなきゃダメなんだ。だけどね、いつもより難しいことをしなきゃいけない今が、すっごく楽しい!」
「楽しいついでに、離れていたワンエイティとの距離が一気に近づいたもんな。あの女よりも雅輝のほうが、ここを速く走ってるってわけだ」
先ほどよりも弾んだ橋本の声に、宮本はチラリと横を見た。目尻に笑い皺を滲ませた恋人の顔を目の当たりにして、同じような声を出す。
「だけどこの短いコーナーの連続区間で、ワンエイティを抜かすことはできない。きっと彼女もそれを予測して、俺の前に飛び出て邪魔に入るはず。ワンエイティを抜かすなら、あの大きな急コーナーを無事にクリアしてからじゃないと」
「そのことも女の予測に入っていて、邪魔をされたらどうする?」
「陽さんが誰かとケンカしていたら、どうするつもりなの?」
質問を質問で返した宮本に苦笑いしながら、橋本はこれまでやってきたケンカを思い出した。種類は違っていてもバトルに違いないと考え、張りのある声で告げる。
「ここでやると決めたら、それに向かってひたすら努力する。そして狙いを澄まして、ハイキックってところだな!」
橋本が楽しげに告げたと同時に、それが目に飛び込んできた。ワンエイティは先に車体をコーナーの角度に合わせて、惚れ惚れするような四輪ドリフトをはじめる。
「陽さん……」
「いい感じのスピードにノって、ここまで来たんだ。絶対にこのコーナーを、雅輝はクリアすることができる。信じてるから」
ワンエイティから出るタイヤのスキール音を聞きながら、ハンドルを切った宮本は同じように四輪ドリフトを繰り出し、二台並んでコーナーに沿ってなだらかに走行した。いつもとは流れの違う車窓――左から右へと流れる景色と躰に感じる強い重力に、橋本の額に滲んでいた汗が流れ落ちる。
「雅輝といいあの女といい、どうしてこの状況で笑っていられるのか、全然わかんねぇ」
橋本が座る車窓の向こう側のすぐ傍にある、ワンエイティを操る女の顔と、隣で嬉しそうに微笑む宮本の様子がリンクしていることに驚愕しつつも、少しだけ寂しさを覚えた。
「陽さんってばそんなことを、悠長に語ってる場合じゃないですって。彼女の笑みが消える瞬間を教えてください」
「笑みが消える瞬間?」
橋本がオウム返しをしたら、宮本は横目でチラッと視線を飛ばす。いつもより格好良く見えるそれに、橋本の胸が一瞬で高鳴った。
「人の笑みが消える瞬間は、どんなときですか?」
「しまった! とかやっちまったぜ! って思ったときだろうな」
「そこに隙が生まれるってわけですよ!」
宮本はコーナーに沿って車体を滑らせていたインプを一瞬だけ角度を変えて、対向車線に向かってはみ出した。コーナーの出口は目前である。これらの状況から宮本がなにをするかを察した橋本が、ワンエイティの運転席をじぃっと凝視しながら様子を窺う。
「笑みが消えたぞ!」
追い越しをかけるべく、アウトラインから果敢に攻めたインプを邪魔するために、女はハンドリングで素早く体勢を立て直し、ワンエイティも対向車線に出る一瞬の隙だった。それよりも早く、インプが左から追い抜きをかける。
本当に一瞬の隙だった。女が気づいたときには、インプのボンネットの鼻先がワンエイティを追い抜く。宮本の驚異的な反射神経のお蔭だった。
「「行けーっ!!」」
橋本と宮本が車内ではしゃぎながら、無邪気な子供のように笑い合った。
勢いよくアクセルを踏み込んでも、すぐにS字コーナーが目前に迫る。それに伴ってインプのスピードが落ちるのを、ワンエイティが背後から虎視眈々と狙い澄ました。
「雅輝、地元よりも早く走れるってところを、思う存分に見せてやれ。今まで我慢して、女のケツを追い回していたんだ。フラストレーションを発散させろ。間違いなく、いい走りになるだろうさ」
「わかった、陽さんが惚れ直すくらいの走りをしてみせるよ!」
(おいおい、これ以上惚れさせてどうするんだか……)
「キラキラ光り輝くピンク色のラインをなぞって走れば、いつも以上に速く走ることができるはず!」
そう断言した宮本の走りは、地元の三笠山で走行したものよりもキビキビしたものだった。最速を目指す走りは一切の無駄がなく、橋本が失神する手前のレベルと称するに値するくらいに凄かった。気がつけば、背後にいるはずのワンエイティのライトが遠くに見えていて、女が戦意を消失したのが明らかだった。
鼻息荒くしながら颯爽と走行し終えた宮本は、峠の入り口にある駐車場にインプを停めて、女がやって来るのを待つ。
ワンエイティが横付けされたのをきっかけに、橋本が助手席から降りると、バトル後でぼんやりしていた宮本も、慌てて運転席から降り立った。
「まーくん、お待たせ♡」
泣き真似した女が宮本に抱きつこうとしたので、橋本は無言のまま女の襟首を掴んで、素早くそれを引き留めた。
「おじさんってば、ちょっとくらいいいじゃない。私の完敗だったんだし、まーくんに慰められたいんだってば」
「余計な刺激を与えるな。バトルしたあとで、雅輝は疲れてるんだから」
「とかなんとか言っちゃって。本当は恋人のまーくんに、触れられたくないだけでしょ?」
女が告げたセリフに橋本はたじろぎ、掴んでいた襟首から手を放すと、すかさず腕を掴まれて、豊満な胸に挟まれた。
「あっ!」
その行為にいち早く反応した宮本が、橋本の反対の腕を引っ張って、女から引き離そうとした。
「雅輝っ」
「だって!」
「まーくんってば、おじさんにぞっこんなんだ。へえ」
橋本はしたり顔する女を無視して自力で腕を奪取し、宮本の隣に並んだ。
「ねえねぇ、どっちが下になってるの? おじさんがまーくんを抱いてるの?」
「そんなこと関係ねぇだろ。それよりもこのこと――」
「陽さんには、もう手を出さないでください! 俺のなんですから!!」
宮本の爆弾発言に、橋本はその場で頭を抱えたくなった。嫉妬心に駆られた恋人を止める術がわからず、白目を剥いて失神しそうになる。
「まーくんはおじさんにぞっこんだけど、おじさんてば最初逢ったときに、私の躰をじろじろ見てたよ。やっぱり男よりも、女のほうがいいんじゃない?」
メガネの赤いフレームを上げながら指摘した言葉をきっかけに、宮本は橋本に鋭い視線を飛ばした。場の空気は最悪を極めていて、とっとと帰りたくなった。
「陽さん、見てたんですか?」
「目の前にいたんだから、普通に見るだろ……」
「おじさんってば、絶対に普通じゃなかったぁ。エッチな目で見てたもん。揺れるおっぱいを物欲しそうに、じーっと見てた!」
「陽さんっ!」
「見てねぇよ。この女の自意識過剰に、まんまと踊らされるんじゃねぇって」
(雅輝の持ってる美少女フィギュアに似てるから見てただけなのに、なんでこうなっちまうんだ)
「だからまーくん、おじさんと別れて」
「へっ?」
宮本は食ってかかっていた橋本から、女に視線を移す。橋本は恋人の様子を、ドキドキしながら横目で眺めた。なにを言いだすかわからなくて、さっきから動悸が止まらない。
「私、おじさんのこと気に入っちゃった♡ ワンエイティの助手席に乗ってもらいたいなと思って。そしたらまーくんみたいに、私も走りに磨きがかかりそうだし」
女のセリフを聞いた宮本は、がらりと表情を変える。それを目の当たりにした橋本は、慌てて会話に割って入るしかなかった。名誉の挽回をする機会を逃すまいと、それはそれは必死だった。
「雅輝とは絶対に別れない。なんでおまえの車に、俺が乗らなきゃいけねぇんだ。都合のいい道具として俺を使おうとしてるのが、見え見えなんだよ」
「とかなんとか言っちゃって。おじさんの腕をおっぱいで挟んだとき、嬉しさのあまりに体温が上がったこと、すぐにわかったんだからぁ」
「嬉しさなんて、これっぽちもなかったって。余計なことして雅輝を怒らせたら、めんどくせぇ展開になるから、それで――」
「陽さん、やっぱり女を抱きたくなったんですか?」
「ほらみろ、言わんこっちゃない……」
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