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シェイクのリズムに恋の音色を奏でて32
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「マスター、なにかいいことでもあったの?」
絵里さんは店に来た途端に「今日はひとりでマスターに逢いに来ちゃった」と言ってカウンター席に座り、俺に突然話しかけた。
「いつもと変わりありませんよ」
「うっそだ~。さっきから手にするものをムダにクルクル回して、隠しきれない嬉しさを醸し出してるのに!」
「手にするものくるくるって、これか――」
絵里さんに指摘されてはじめて、持っているアイスピックを手の甲でクルクル回していることに気づいた。
「実は私も、嬉しいことがあったの。だからそれをマスターにお裾分けしようかと思って、飲みに来たというわけ。だけどマスターにも嬉しいことがあったみたいだから、お裾分けの必要はない感じかな?」
「嬉しいことのお裾分けなら、たくさんいただきたいですね」
言いながら自分用に作ったジンジャーハイボールのグラスをひょいと掲げ、絵里さんのカクテルグラスに当てて、勝手に乾杯する。
「そういえば今夜は聖哉くん、お休みなの?」
誰もいないピアノに視線を飛ばしながら、絵里さんが聖哉のことを口にした。
お客様も少なく、店内にいつも流れているピアノの音がないせいで、どこか違和感が拭えない。
「今日は午後から、コンテストの練習をしに先生のところにレッスンに行くと聞いたので、疲れるだろうから店のほうは休んでいいと言ったんです」
「もしかしてその寂しさを紛らわすために、マスターは手にしたものを回していたのかな?」
「かもしれません。アイツの弾くピアノの音に合わせて、仕事をしていたところがあったので」
聖哉の弾くピアノが自然と耳に入り、気づいたらそのリズムに合わせて流れるようにシェイカーを振ったり、洗い物をこなしたりと、いい感じに仕事をしていることに、最近になって気づいてしまった。
「ふふっ、マスターってばすっかり、聖哉くん推しになってる」
「ええ、アイツがいないとリズムがとれなくて、手元が疎かになってしまいます」
「私もね、職場に中途採用で入ってきた若い男のコの熱心な仕事ぶりに、すっかり目が離せなくなってるの。私も頑張らなきゃって!」
「なるほど。いつもより絵里さんの瞳に輝きがあるのは、その彼のおかげなんですね」
気だるげな雰囲気を醸しながらいつもお酒を嗜んでいる絵里さんの様子が違うので、思ったことを口にしてみた。
「やだ……。そんなに違う?」
「華代さんが年下の男性の話をするときの感じに、よく似ていると思います」
わかりやすいであろう例えで華代さんを持ちだしたら、目の前でゲンナリした表情をされた。
「ハナと似てるって、あんなにきゃぴきゃぴしてないのに……」
「だけど華代さんが年下男性を推してる理由が、なんとなくわかったんじゃないですか?」
普段ふたりが話し込んでいることを思い出しながら、笑って指摘したときだった。ドアベルが店内に静かに鳴り響き、誰かが入ってきたことがわかった。
「いらっしゃいませ……って、聖哉?」
今夜は休むと思っていた聖哉が現れて、思わずニヤけそうになる。目ざとく俺の顔を見た絵里さんが「マスター、よかったね」なんて、小さな声で呟いた。
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