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第2話

 それがはじまりだった。  ミチルと同じ苗字の「サカイ」という客はそれから時々店にあらわれるようになった。最初の日、店の二階へ行ったサカイは「ちょうど欲しかった」といってカジュアルなジャケットと綿のスラックスを買った。最初彼は濃いグレーと濃紺のジャケットを二枚並べて考えこんでいたが、やがてミシンのうしろにいたミチルに手をふり、どちらがいいかとアドバイスを求めた。ミチルは濃紺のジャケットを推し、サカイはそちらを買った。セールワゴンの中身は売れなかった。  結局、会社で必要だといったハロウィンイベントの仮装をサカイは傷跡タトゥシールで誤魔化したらしい。翌週の日曜は商店街のハロウィン祭りだった。店の前に群がる子どもにスナック菓子を配っていると、サカイがそのうしろを徒歩で通りかかり、ミチルと目が合うと「あ」といって立ち止まった。 「この前はどうも」 「はあ」 「タトゥシールがうまくいって、今年はマシだって社長にいわれましたよ。ゾンビっぽく服を汚すって意外に大変ですね」  そうですね、とミチルは曖昧に笑いながら手に持ったお菓子のやり場に困り、そのままサカイに差し出した。 「その……いります?」 「大人でももらっていいんですか?」 「たくさんあるので」 「じゃあ――トリックオアトリート!」  男の身長はミチルより10センチほど低かった。突き出された手のひらにミチルはスナック菓子を押しつける。ノリのいい人だと思った。自分とは大違いだ。  その年のハロウィンが終わり、仮装もワゴンセールも終わってからも、ノリのいいサカイは時々店にやってきた。平日はスーツで、週末はそれ以外。どちらの場合もカボチャ色のスポーツサイクルに乗ってくる。二階のカウンターのむこうにミチルをみつけると気軽に話しかけてくるので、やがてミチルも慣れて一言二言、話をするようになった。  十二月のはじめになるとサカイは「リサイクルショップで服を買ったことってなかったんですけど、悪くないね」といいながらダウンやフリースを買い、クリスマス前には「サンタ服は着ないんですか?」とたずねたが、ミチルをからかっているわけではなく、ただ話のきっかけを作るのがうまいだけなのだった。同じ「サカイ」だから親しみがわくよね、といわれたこともある。  定期的にリピートする客は自然と覚えてしまうものだし、サカイのようによく話すようになれば忘れようがない。それに彼が店に寄らない時もミチルはときどきカボチャ色の自転車を目撃した。ミチルの住まいは店のビルの四階にあったが、朝、洗面所で歯磨きをしているときにちょうどその色が見えるのだ。  それ以外の日常はその前と同じだった。ミチルはあいかわらずバイトの学生を覚えられず、話好きの店長はミチルを聞き役にして、いくつかの季節があっという間に過ぎた。  サカイは春も夏も時々店にあらわれ、ミチルは彼が買ったズボンの裾をあげたり、ほつれを直したりしたが、そうこうするうちに街にはまたカボチャ色の気配が近づいて、今年のミチルは鋲を打ったレザージャケットを着て羽根のついたハットをかぶっている。  オーナーの平井さんのハロウィン熱もあいかわらずだし、商店街のハロウィン祭りも去年より一段と賑やかになった。保育園がいくつか開業して家族連れが増えたせいじゃないかと店長はいう。本来十月末日であるハロウィン当日からさらに二週も早い開催となったのは、都心で開かれるハロウィンイベントとずらすためらしい。 「今年はパイレーツ?」  日も暮れて子どももいないからとミチルがワゴンを片づけていると、もうすっかり聞きなれた声がした。カボチャ色の自転車にまたがったサカイがミチルをみあげている。不気味に笑うカボチャの提灯に照らされて、彼の顔色はすこし鈍く曇ってみえた。 「鉄板だし、わりと簡単なんで」とミチルは答えた。 「そのレザーって店の?」 「飾りは自分でつけたけど。羽根も」 「売れた?」  サカイはワゴンを指さし、ミチルは首をふった。 「今日はぜんぜん。みんなお菓子狙いですよ」  サカイは自転車を降りてとめると、ワゴンの中をかき回した。毒々しい赤と紫のペイズリー柄の布を広げる。「これ何?」 「ジレ……ですかね」 「着ていい?」  うなずくとサカイはジャケットを脱いで派手な柄のジレを羽織った。全く似合っていない上にペイズリー柄なんて懐かしすぎるし、いったい誰がどんな時にこんな服を着たんだろうとミチルは思った。サカイは首を振って値札を見た。三〇〇円の文字が消されて、今は百円とついているはずだ。 「商店街の飲み屋、仮装したらビール半額になるらしい」  サカイがいった。「これ着るだけで仮装で通るかな。百円なら完全に元がとれる」 「さあ」ミチルは曖昧に笑った。 「どうにかなるんじゃ。今年は会社のイベントはないんですか?」 「あれね」サカイは妙にぼんやりした口調だった。ミチルの問いに答えず、唐突に「後で飲みに行かない? そのかっこうで」といった。  もしかしたら去年のハロウィンから一年のあいだに、ミチルにとってサカイは、店長の次に会話する事の多い他人となっていたのかもしれない。それでも飲みに行こうと誘われたのははじめてだったし、ふつうの時なら口実をつけて断っていた気がする。パイレーツの仮装がミチルを大胆にしたようだった。  ミチルも存在だけは知っていた小さなビストロ風居酒屋の前で、サカイは百均で買ってきたという猫耳のカチューシャをつけた。意外なことに中に入ったとたんミチルはアルバイトに「リサイクルショップの仮装の人」とたちまち認識されて、サカイも一緒にビール半額サービスが適用されたのはもちろんのこと、店員と一緒に写真まで撮られた。  飲みはじめるとサカイの顔色はすこし良くなったようだ。「焼き鳥は海賊に似合う」といいながらミチルの手に串を押しつける。 「来年は仮装に悩まなくてもよさそうなんですよ」 「会社のイベントですか?」 「たぶん転職するから。うちの会社あぶないらしくて」  ミチルは黙ってうなずいたが、転職という言葉にリアリティは何も持てなかった。もし自分が店をやめなければならないとしたらどうすればいいのか、皆目見当もつかない気がする。  カウンターとテーブルだけの小さな居酒屋はほぼ満員で、人は時々出たり入ったりした。仮装ビール半額サービスを求める客も時々やってくるが、ミチルほど仰々しいものはいない。 「都心のハロウィンはみんな派手だけど、ここの方が目立っていいんじゃない?」とサカイがいった。 「目立ちたいわけじゃないんですよ」 「カッコいいからいいじゃん。仮装してなくてもいいけどね」  半額なのをいいことにビールのジョッキを重ねているうちに二人で相当な量を飲んでしまった。酔った勢いでミチルはふだんなら話さないことも口にしていた。店の四階に住んでいること。オーナーの平井さんは遠縁だということ。就活に失敗してなんとなく居ついてしまったこと。  サカイの酔っぱらい方もひどく、彼の話を聞いてわかったのは、転職の悩みもさることながら、最近付き合っていた相手に振られたか別れたか、ともかく何かがあったということだった。 「でもまだいいじゃないですか。僕なんてなにもない歴イコール年齢だし」  仮装して酔っぱらったおかげでミチルはいつもの十倍以上大胆になっていたに違いない。そんなことをいいながら割り勘で会計して外に出て、帽子から羽根を抜いてサカイの顔をくすぐったのに他意はなかった。 「そんなことないでしょ」 「いや……女の人ってちょっと……怖いから」  小声だったから聞こえなかったのかもしれない。街灯のあいだを縫うようにして小さなカボチャの提灯が吊るされている。酔っているせいかサカイの表情が妙におぼろげに感じられる。猫耳のカチューシャはいつの間になくなったのだろう。 「この上に住んでるんだっけ?」  はっと気がつくとミチルはいつもの店の前にたどりついていた。隣の男が足をとめなかったらそのまま歩いていたかもしれない。 「ああ、うん、そう。こっち」  表のシャッターは閉めてあった。駐車場のある裏口には郵便受けが並び「リユースショップ トリル」の上に「坂井」と書いてある。 「ああ、この坂井ね」  サカイがいった。 「え?」 「てっきり同じ字だと思ってた。俺は酒井。酒に井戸の井。のぼる坂じゃなくて」  一瞬何の話かわからなかった。やっと理解がおいついてミチルはいった。 「サカイちがいだ」 「下の名前は?」 「ミチル」  サカイ――酒井はふいに笑いだした。驚いたミチルの肩をたたくとレザーの鋲をぐいっとつかんだ。触られたのは初めてだった。そのままレザーの襟をつかまれて、酒井の顔がすぐそばに近づく。 「すごい、一字ちがいだ。俺はミノル」  唇が触れそうなくらい近くにあった。それが動くのがスローモーションのようだとふいに思う。 「女が怖いって? 男は?」  ミチルは口を小さく開けたまま硬直した。どういうわけか動けなかった。  ふたりして何秒のあいだそのままの姿勢でいたのだろう。時間の感覚がなかったのはアルコールのせいか、仮装のせいか、カボチャの提灯のせいか。  唐突に酒井は手を離した。 「別れたのは男なんだ。俺はそっちの方でさ。悪い」  そして素早くきびすを返し、駐車場を走り抜けていなくなった。

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