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神谷に肩を貸され、青のいる本部に向かう。ポツポツと振り始めた雨が肩を濡らす。
「っていうかアンタこれヘアカラースプレーですか? ブレザー頭に被せちゃいましたけど付いてませんよね?」
「わ、……かんね。付いたかもしれない」
「ま、いいです。予備の制服あるんで」
もっと怒るかと思ったが、神谷は平然と許してくれる。半ば引きずられるように歩を進める。俺は慢性的な貧血を患っており、こうした症状には割と慣れていた。今回のも貧血による立ちくらみだろう。
「……そろそろ、ポイントの集計が始まったころですかね」
神谷の言葉が聞こえたかと思うと、体がふわりと浮く。
「えッ、ハァ!?」
被せられたブレザーが地面に落ちる。体が横になった状態で宙に浮いた。背と膝裏に腕が回されている。これはもしや、お姫様だっこではないだろうか。
驚きと混乱で呆然としている俺に、神谷がクスリと笑う。その声がやけに優しくて気恥ずかしい気持ちになる。多分神谷は柔く微笑んでいるのだろう。
「すみません、このままアンタに合わせてチンタラ歩いてたら間に合いませんので」
「うっせ」
「……アンタ、落とされたいんですか?」
おっかない。落とされてたまるかと神谷の首を探り当て、腕を絡める。ハァ、と呆れたような神谷のため息が聞こえた。
「……も、いいです。行きますよ」
地面に落ちたブレザーを拾い上げ、再度頭に乗せられる。幸いにも降り始めたばかりの雨はさほどブレザーを濡らさなかったようだ。
ペトリコールの匂いが地面から沸き立つ。軽やかな神谷の走りに、匂いはどんどん後ろへと流れる。神谷は重さに立ち止まったり持ち直したりすることもなく走り続け、そして緩やかにスピードを落とし、止まった。
「委員長」
「……っ、そいつ、椎名か?」
「はい。保護しました」
どうやら本部に着いたようだ。神谷がブレザーを取り上げると、髪色が露わになる。青の息を飲む音が聞こえた。
神谷の腕をポンポンと叩き、降ろすように頼む。立ち上がり周囲を見ると、目の霞みはだいぶマシになっていた。
「神谷、ごめん。助かった。もう平気だ、ありがとう」
「アンタまだフラフラでしょうに。変な意地張るの、面倒臭いんでやめてください」
照れ隠しでもなんでもなく心底嫌そうな顔に苦笑する。優しいんだか、優しくないんだか。
「……赤を、保健室に」
「いや、体調自体はもう問題ないからスプレー落としに行ってもいいか? 部屋のシャワーで流したらすぐ戻るから」
青の押し殺した声で告げられる指示を棄却する。早くこの色を落としたかった。ウエストバッグの中からメガネケースを取り出し、眼鏡を仕舞い込む。
それだけでも圧迫感から解放された気がして、ホッと一息ついた。
「去年までの赤みたいだな」
「あー、黒髪だからな。さっさと落としてくるよ」
「金の方が赤は楽そうだし、その方がいい」
青の言葉にへにゃりと笑う。なんだか泣き出したいような気分だった。涙を堪えると奥歯のあたりがツンと痛む。
「じゃ、二人共。後で合流する」
二人のもの言いたげな表情を無視し、手を振り別れる。本部を出て寮の方向へ走り出す。雨脚は先程よりも激しくなっていた。
「おっや? 副くん?」
おどけるような口調。声の主を見ると、やはり江坂だった。傘をくるくると回して機嫌が良さそうだ。
「何で黒髪? 大分落ちてきちゃってるけど」
「さぁ? 書記さんとお揃いの髪色にしたくなったからとかどうですか?」
「ふぅん? 悪くないね。でも、僕は」
──君は桜楠円になりたいのかと思ってたよ。
「ハッ」
笑いが漏れる。無意識に俯けていた視線を上げ、江坂を見据える。彼は小首を傾げこちらを見つめていた。
「冗談にしても面白くないですね」
「嘘と冗談は僕の十八番だけど、今のは冗談じゃないよ」
「そーですか。でも残念、ハズレです」
「どうだか。君は嘘つきだからね」
いけしゃあしゃあとよく知りもしないくせに。反発する心を押し殺し答える。
「それだけは否定しませんよ」
ニッコリ笑って答えると、「妙なところだけ潔いんだから」とむくれだした。
「じゃあどうしろってんですか。面倒くさい人ですね」
「はっは、地が出てるよ」
「ヤなことばっかり言う姑みたいな人に丁寧な言葉使う必要ってあるのかなと」
「確かに。あんまりないね」
自分で言うのかよ。俺のじとりとした視線から思いを理解したのか、江坂は深く頷く。相変わらず芝居がかった動きだ。
「だってその通りでしょー。人っていうのは相手に相応の態度を取るものだからね!」
「ま、そうですね」
「だ! か! ら! 思いやりを求める僕は今から君に親切にしま~すっ」
「はぁ?」
ほら、と差していた傘を押し付け走り去られる。
「利子つけて返してね~! ま、嘘だけど!」
ハハハと笑いながら生徒会室の方へ走り去っていく江坂。景品獲得者の発表の準備をしているのだろう。俺も早くスプレーを落として合流しなければ。
江坂に借りた傘を差し寮へと帰る。新歓のため生徒は皆出払っており、いつも賑やかな寮内は閑散としていた。
角を曲がると、階段の踊り場に柄の悪そうな生徒が一人座り込んでいた。不機嫌そうに何かを口に咥えている。
「桜楠……ッ?」
威圧するような声色に、関わり合いになると面倒なことが起きる予感がヒシヒシとする。逃げようかと考えたのが分かったのか、不機嫌君はブレザーを掴みあげてくる。
半ば反射的にその腕を捻り上げ、足払いを掛ける。
「はあっ、わっ!?」
顔を床に打つ形で倒れこんだ不機嫌君の手を踏み体重をかける。
「痛ッ……」
痛みを訴える声に我に返る。
「……あ。ごめん、ついびっくりして」
「びっくりしたで済むかッ!」
元を正せばいきなり掴みかかってきた不機嫌君の方が悪いと思うのだ。不機嫌君は俺を訝し気に見つめ、考え込む。
「そういえば今年になって編入してきたのが桜楠の双子の弟とか言ってグズ共が喚いてたなぁ……お前か」
先程の芸当が円には不可能だと悟ったらしく、不機嫌君は正確に答えを言い当ててくる。
「そうそ、俺は椎名由。よろしく、不機嫌君」
「あ゛あ゛ッ!? 舐めた呼び方してんじゃねぇ!」
「こーら静かにね」
踏みつけたままだった手を踏み潰すと不機嫌君は「ぐあ!」と呻いて静かになる。
「おいおい、これのどこがいつもニコニコしてて爽やかで優しいんだよ……」
「別に俺がそう言った訳じゃないし」
鼻で笑うと不機嫌君は嫌そうにこちらを見つめる。
「もしかしてその喋り方、素じゃねぇな?」
「そんなことないよー」
「人殺しそうな目をしながらお優しい喋り方してんじゃねぇ気持ち悪ィ」
「……ふぅん?」
そんな目をしていただろうか。だとしたら今の自分は相当余裕がないらしい。不機嫌君の手から足を退け、倒れている彼の横に座る。
「そんな顔してた? 俺」
「今もしてるだろ」
不機嫌君が吐き捨てるように言う。
「そっかー……ごめん、不機嫌君。ちょっと八つ当たりした」
項垂れながら謝ると、スパンと頭を叩かれる。クラリと頭が揺れてへたり込む。そういえばさっき倒れたばっかりだったなぁと他人事のように思い出す。
「ハァ!? おま、ホント何なんだよ!」
「やー、重ね重ねごめん。俺さっきぶっ倒れたばっかでさぁ……ちょっと今安静にしとかなくちゃいけなかったんだよねー」
「あんなに暴れておきながら!?」
ぎょっとした顔をする不機嫌君に、コイツ思ってたよりいい奴かもしれないと評価を上方修正する。
「ねー不機嫌君」
「うっせダボ! 二村 だ! 二村菖 !」
「えっ、菖っていうの!? じゃ菖ちゃんって呼ぼうかな!」
「呼ぶな!」
噛みつきそうな勢いで拒否をされ、思わず笑う。
「そっか。なら二村って呼んでもいい?」
「……ま、それなら」
渋々といった具合に許可が下りる。やっぱりコイツいい奴だろう。
散々踏みつけた手を取りお願いをする。
「ね、二村。俺を部屋まで連れてってくれない?」
俺の言葉に、二村は呆然と口を開ける。ぽろりと咥えていたものが床に落ちた。
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