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どこまで話そうか。自分のことを人に語ろうなんて思ったこともなかった。そもそも、そんな話が聞きたい奴なんていないだろう。どうしよう、と先生を見やると、「お前の友達の話とかどうだ?」と言われる。友達の話。そうだな……。お題があると確かに話しやすい。先生は俺が青に事情を話さないことを気にかけていたようだったから、その話でもしようか。
「じゃ、夏目の話を」
「夏目とは随分仲がいいみたいだな。風紀に入ったのがきっかけか?」
俺が話しやすいよう気を遣ってくれているのだろう。先生は質問を投げてくる。顔を突き合わせた状態のまま話すことが気まずく、俺はごろりと横になる。
「……いいえ。夏目と初めて出会ったのは、中学一年の時です」
「中一?」
「はい。冬の、夜のことなんですけど。あいつ、不良に絡まれてて」
正確に言うとどっちも不良になるんだがまぁそこはいいだろう。
「あいつ、連れてた友達もその不良に潰されて、もうリンチ寸前の状況まで追い詰められてて。それでも、俺、助けるつもりなんてなかったんです」
先生は意外だったのか僅かに首を傾げ、話を促す。
「なんで、俺のことは誰も助けてくれなかったのに俺だけ知りもしないやつを助けなきゃいけないのかなって。多分、そういう思いがあったんだと思います」
そうだ。あの日は初めて誰にも内緒で家を抜け出した日だった。俺は、思っていたよりもずっと簡単に家を手放せたことに驚いて。母さんが追ってきているのではとびくびくして。自分のことでいっぱいいっぱいだった俺には、とても人の面倒を見る余裕なんてなかった。縋るような目も、声も、どうだっていいと。そう、切り捨てるしかない、はずだった。
「なのに、なんでかなぁ。円の声と重なった瞬間、見捨てることができなくなったんです」
馬鹿みたいに。
先生は短く「うん」と相槌を打つ。そこに暗い感情の乗っていないことに安心し、俺は続きを話しだす。
「最初は、夏目なんて嫌いでした。俺の声が掠れているのを聞いて、風邪か? なんて無邪気に言うあいつが憎たらしくてしょうがなかった」
夏目は知らないんですけど。前置きすると、またうんと相槌が返ってくる。
「……俺、声が掠れていたのは風邪が原因ではないんです」
漂白剤とか、カビ取り剤を混ぜるとどうなるか知ってますか。俺の問いかけに、先生はハッと目を見開く。心配そうにこちらを見やる先生に苦笑する。漂白剤やカビ取り剤。そういったものを混ぜると有毒ガスが発生する。俺の声が掠れていたのは、有毒ガスが充満している浴室に閉じ込められたからだった。先生は俺の一言でそこまで理解したのだろう。喉の具合を聞いてくる。
「一時期は爛れて酷いことになってましたけど。今は平気ですよ」
ほら、と口を開き喉を見せる。先生は手持ちの懐中時計を俺の口の中に向け、ふむと確認した。
「治ってるな」
「閉じ込められた時、服を脱いで水で湿らせたんです。それで口を塞いで床に伏せてたので。最小限の怪我しかしてないはずです」
痛かったな、と声を落とす先生に、大丈夫だと笑ってみせる。俺は平気なのに、先生が悲しそうな顔をするから。とっくに治ったはずの喉がちくりと痛みを訴えた。
「先生。神様なんですって、俺」
突飛な言葉に先生は訝し気な顔をする。
「夏目が、言ってたんです」
付け足すと先生はハァとため息を吐き、俺の横に寝転がる。
「それで? お前はその通りに生きてやるのか?」
──家でしていたのと同じように?
暗にそう言われたように感じ、言葉に詰まる。ゆらり、瞳が揺れる。横で寝ている先生の方を向くと、先生は俺を見つめていた。本当にいいのか。そう問われているようで。俺はそっと視線を外す。
「椎名。お前は、何のためにこの学園に来たんだ」
「俺、俺は──」
何のため? そんなこと考えたこともなかった。椎名グループの代表になるために、という建前こそあるものの、確固たる目的を持ってこの学園に来たかと問われればそれは否だった。自分自身が何をしたいか分からない。究極的なところそれによるのではないだろうか。
「椎名。夏目には悪いけど、お前が潰れかねないからはっきり言うぞ。神様に向ける気持ちは、確かに尊いものだろう。夏目のお前に向ける気持ちもそれと同じで澄みきった水のような、そんな感情なのかもしれない」
こぽこぽと湧き出る清水のような、そんな、美しい。
「でもな、どんな綺麗な水でも、量が多けりゃそりゃただの災害だ。生身の人間相手に信仰をぶつけるなんてことは暴力とそう違わねぇ」
身じろぐと、ブルーシートは大袈裟に大きな音を立てた。むっつりと黙り込んだ俺の瞼を、先生はそっと手で覆う。
「椎名。お前はお前にしかなれないよ」
覆いが取れる。眼前に広がる星々。その間を縫うように、一筋の流れ星が夜空を駆けていった。
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