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部屋の前にてラーメンを受け取った俺たちは、望遠鏡と共に屋上を訪れていた。ラーメンを食べるかと思われた先生は、しかし食事に手をつけることなく望遠鏡をセットし始めた。ラーメンを食べつつ先生を見守る。
数分後、見てみろ、と言う先生に促され望遠鏡を覗き込む。
見えたか、と後ろから声をかけられる。緑色の円盤が見えます、と答えるとそうか、と笑う声がした。
「それ、まばたき星群って言うんだ」
「まばたき?」
「そう」
先生は俺の近くに屈み、空を見上げながら説明を始める。俺は再び望遠鏡を覗き込む。
「10等星の……あー、暗い星と、周りの星雲を交互に見てみ」
「はい」
言われた通りにじっと見つめる。驚きに、え、と声が漏れた。
「お、分かったか」
「はい、星雲が一瞬消えました」
俺の言葉に先生は満足そうに頷く。
「そう。交互に見つめると星雲がまばたきするみたいに現れたり、消えたりする。目の錯覚による現象なんだが……。それが、この星雲の由来だ」
次を見ようか、と言う先生に苦笑する。
「先生、ラーメン食べちゃわないと。伸びてますよ」
かくいう俺のラーメンもすっかり伸びていた。とはいえ、残りわずかである点を加味すると、全く口をつけていない先生のラーメンよりははるかにマシだ。先生の麺は汁が見当たらないほどブヨブヨに膨れている。先生は夕飯の存在にあ、と顔を引きつらせ、食べはじめる。
「まずい」
「伸びきってますからねぇ」
膨れた麺を食べきり、ごちそうさまでした、と箸を置くと先生は恨めしそうに俺を見つめた。伸びたのは俺のせいではないだろうに。
「先生は、星空が好きなんですね」
いつになく子供っぽい先生を見れば明らかだ。もちろん、俺を誘ってくれた理由がそれだけだとは思わないけど。
先生は太くなった麺を口に突っ込み、もぐもぐと咀嚼した後、まぁなと浅く頷いた。
「……うん、椎名。折角だから俺の話を聞いてくれるか」
「先生の?」
「あぁ」
ラーメンを空にした先生は、ブルーシートの上にごろりと寝転がる。俺も真似するように先生の横に寝転んだ。
「俺の専門が宇宙物理学だって前に話したよな?」
頷く。
「……ダークマターって知ってるか」
「いえ」
先生は、すらりと腕を天に向けて伸ばす。
「赤外線、紫外線。それらを用いるどの望遠鏡でも見ることはできない。でも確かに宇宙空間に存在する物質。それが、ダークマター」
俺はそれを研究したかった。伸ばされた手は、何を掴むこともなくパタリとブルーシートに下ろされる。
「俺の家は、まぁ知ってるかも知れんがおもちゃメーカーでな。俺は次男だから跡継ぎ云々の話は特にないんだが」
それでも、見栄っ張りな家でなぁ。重い、溜息をつく。
「田上の次男が研究職なんて、って猛烈に反対された。大手とかに勤めて欲しかったんだと」
桜楠の教師ならってことでここもようやく許されたんだ。今ではなってよかったって思えるけどな。先生はふと体を起こすと、望遠鏡を弄りはじめる。
何を見るんですか、と聞くとM81銀河と答えが返ってくる。聞き覚えなんてなかった。俺の鈍い反応に先生は微笑み、話を再開する。
「なぁ椎名。お前は、賢いな」
先生の手は、変わらず望遠鏡を弄り続ける。
「……親父さんの亡くなったのが原因だったか」
片手間に話しているようでいて、そのくせ傷つけないように細心の注意を払われていた。それくらい、分かった。この案外生徒思いな先生が、無神経に人の心に踏み入ってくる訳がないのだ。
「お前が、親父さんは星になったんだって、無邪気に信じられたらよかったのにな」
望遠鏡を弄っていた先生の手が、不意に目元に伸びる。親指の腹を押し当てるようにして、先生は俺の目元を柔く撫でる。
「……椎名、気付いてるか」
「何が、ですか」
「お前、泣いてるよ」
目元に手をやる。
「……は、ほんとだ」
気づかなかった。バカみたいだ。は、と笑みが漏れる。先生は、ほら、と弄りおえた望遠鏡を俺に譲る。大人しく覗き込む俺に、先生は「椎名」と声をかける。
「……ないように見えても、あるものはやっぱりあるんだよ。痛みも、傷も」
俺はそれに気づける教師でありたい。
俺の背を優しく撫でた先生は、見えたか? と柔く尋ねる。
視界には銀河が広がっていた。青い渦巻きの周りに星がキラキラと散りばめられている。底なしに闇が広がる中で、ゆらゆらと星の光だけが瞬いている。自分の息をのむ音が聞こえた。
「綺麗だろう」
「……はい」
ポタリ、頬が濡れる。
「……お前は賢いな。どうしようもないほど賢くて、人に弱音を吐いても事態が好転しないことを知ってるんだな」
子供でいられなかったのか。頬を拭う手の優しさに、また、眼の淵が熱くなる。
「人に期待しすぎる姿勢は確かに正しくないんだろう。人に相談することで解決すること、しないことがある。でもな、ゼロか百かじゃねぇんだよ。二十もあれば、五十もあるんだ。椎名。お前の事情を言いふらせって訳じゃない。ただ、」
先生は言葉を一瞬飲み込み、ふ、と息を吐いた。望遠鏡から目を離し、先生を見つめる。先生は空を見上げていた。
「お前に五十をくれる相手に、話してみるくらいいいんじゃないか。そしたら多少は楽になると、俺は思うよ」
微笑む先生に、ぐ、と喉が詰まる。ダメになりそうだった。こうも易々と俺を甘やかされてしまうのは先生が大人だからだろうか。先生に倣い、俺も空を見上げる。山奥というのもあってか、星は不必要なほどに明るく映った。空に飲み込まれそうだなんて、そんな感傷。非日常によく似た日常。大きく息を吸い込み、ダメな自分を振り切るように俺は笑う。
「じゃあ、先生。聞いて、くれますか」
「そこで俺に頼るか……」
「、だめでしたか」
苦笑いをする先生に、眉を下げる。先生は、いや、と俺の頭を撫でる。お前大人に好かれそうだなぁ。先生は独り言のようにそう紡いだ。
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