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すっかり日は暮れ、廊下はがらんとしていた。夕日が差しこみ、校舎が赤く染まる。気だるげに俺の鞄を持った先生が、きれいだなと呟く。そうですね、と答える己の声は、バカみたいに平坦で、とてもきれいだと思っているようには聞こえなかった。先生は何も言うことなく苦笑する。あ、そうだ、とかけられた言葉は白々しく、気を遣わせたことは明白だった。
「夏目が心配してたから後で連絡しろよ」
「何か、言ってたりしました?」
眠りにつく前の自分の言動を思い出し、苦々しい気持ちになる。青は不審に思わなかっただろうか。思えば、あそこまで弱った姿を見せたのは初めてかもしれなかった。先生はひょいと片眉を上げ、答える。
「特には。……夏目は、お前の事情を知ってるのか」
俺の表情が曇った理由に気づいたのか、先生は声のトーンを落とし尋ねる。
「薄々勘付いてるみたいですけどね。一応、知らないはずですよ」
言うつもりもありませんし。
先生のもの言いたげな顔に向かって言う。先生は廊下に差しこむ日をぼんやりと見つめ、黙りこくった。そっと表情を窺う。目に、夕日がゆらりと映り込んでいた。眼球を照らす赤い光を飲み込むかのようにゆっくりと瞬きをした先生は、やはりゆっくりと、視線で俺を撫でる。気だるげな空気は、霧散していた。
「椎名。俺と、晩飯を食べようか」
「……は、……え?」
戸惑いから、先生の顔をじっと見つめるも、にやりと笑みを返される。どういうつもりなんだ。
「……あの、先生?」
「ラーメンでいいか」
「え、あぁ、はい」
いやハイじゃないだろ、俺。
口をついて出た言葉に内心ぎょっとする。先生はふは、と軽く声を漏らし笑うと、スマホを取り出し電話をかける。
「もしもし、ラーメン二人前お願いします。はい、はいそうです」
じゃあ、と電話を切る。思いがけない方向に進んでいる話に未だついていけない。呆気に取られ動きの鈍っている俺に、先生は相貌を崩す。不意に手を伸ばし、俺の頭に乗せ、柔く撫でた。
「あ」
「……あ?」
ぴしりと固まった先生の言葉を反復する。ん? と首を傾げると、先生は苦笑しまた、俺の頭を撫でた。
「……嫌じゃないか」
不安げに聞く声に、軽く微笑む。
「その、怖かったりは」
「しませんよ」
乗せられた手を、両手で頭に押さえつける。ね、と笑うと、微妙そうな顔をする。あ、信じてないな。俺は捉えた手の指を一本一本弄びながら、声を潜ませる。
「……その人が俺を殴ろうとしてるのかどうかくらい、予備動作で分かります」
じっと瞳を見つめ返す。先生は、困ったように微笑む。
「強いな、お前は」
先生は偉い偉いと俺の髪をかき混ぜる。体に入っていた力が抜け、ほ、と息を吐く。息を吸い込むと、コーヒーのほろ苦い匂いがした。
かき混ぜる手を止め、先生は俺の鞄を持ち直す。
「さ、運ぶ物がある。職員寮の俺の部屋に荷物があるから、お前にも運んでもらおうか」
にやりと意地悪そうな顔を作り言う先生に、今度はしっかりはいと答えた。夕日の赤は、じわりとそのなりを潜めはじめていた。
ここにいろと言われたのは先生の部屋の前。先生はどうやら他の場所で夕食をとるつもりであるらしい。確かに教師が生徒を自室に連れ込む、というのは問題なのだろう。先生が準備をしている間に食堂からラーメンが届いたら受け取るよう言いつかった俺は、ドアの横で一人しゃがみ込んでいた。
遅くなる旨を三浦にLINEで伝えると、程なくして了解と返信が届いた。まだかな、と待つ俺の耳に、一つの足音が届く。出前が到着したのだろうか。予想は外れた。現れたのは、伊丹だ。
伊丹は俺を見つけるとおや、と呟く。
「そこは、田上先生の部屋のはずですが」
やはり生徒に手を。
表情を険しくした伊丹に、内心焦る。放っておけばどこまで暴走するか分からないのが伊丹だ。いや、まぁ放っておかずとも暴走するのだが。
ともかく、あらぬ疑いを掛けられるのはよろしくなかった。すでに何事か考え込んでいる様子の伊丹に、俺は恐る恐る声を掛ける。
「せ、先生?」
「……合意の上ですか」
ダメだ、既に暴走してる。
「あの、先生。俺、田上先生に家庭環境についてカウンセリングしてもらってるだけです。うち、色々ややこしいんで」
それを聞くと伊丹は気の抜けた表情をし、ポツリと呟く。
「事実ですね? 田上は君に手を出してはいないんですね?」
「……出してねーよこンのぼんくらが」
ため息交じりの暴言に、声の主を見上げる。準備とやらを終えたのか、田上先生は鬱陶しそうに表情を歪めドアから顔を覗かせていた。
「ったくお前は学生のころからぴーぴーうるせぇんだよ。いい加減大人になれませんかねぇ、伊丹セ、ン、セ」
ち、と舌打ちをする田上先生に、伊丹は顔を歪める。
「……すみませんでした」
目の輪郭が、ふっと緩む。伊丹は苛立たし気に自分の部屋の鍵を開け、乱暴にドアを閉めた。しん、と先ほどまでの姦しさが嘘のように廊下は静まり返る。田上先生は気まずそうにがりがりと頭を掻いた。
「先生は、伊丹先生と学生のころからのお知り合いなんですか」
「ん、あぁ、そうだ。俺は学生の頃ここの生徒会長をしていたんだが、風紀委員長をしていた伊丹はやけに俺に突っかかってきてなぁ……」
その名残かいまだに突っかかってきやがる。
はぁ、とため息を吐く先生と裏腹に、俺は内心深く頷いていた。それで伊丹はやたらと田上先生に対して悪い印象ばかり語っていたのか。なぜああも田上先生に当たりがきついのか気になっていたのだ。学生のころからの知り合いなら納得がいく。
遅いなぁ、と出前を気にする先生に軽く相槌を打ちつつ、伊丹の部屋の方をそっと窺う。あれほど騒々しかったにも関わらず、部屋からは物音一つしない。ふと、先ほどの伊丹の表情を思い出す。静まりかえった部屋が何より如実に伊丹の感情を語っているようで。やるせなさに、俺はそっと耳を塞いだ。
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