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 ふわり、甘い匂いが鼻を擽る。 「あら、起きたの?」  カップを混ぜていた母さんがこちらを振り向く。 「待ってねー。今、ミルクティー作ってるから。由の好きな蜂蜜たっぷり入ってるやつ。甘々だよー」  やったぁ、と枯れた声ではしゃぐと母さんはそっと俺の額に手を当てた。 「うーん。まだ熱があるね。これ飲んで軽くご飯食べたらお薬飲もうね。円も心配してたよ」  薬、と聞いて顔をしかめるも、渋々頷く。 「薬飲んだら、本読んでくれる?」 「いいよー。なんの本にしようか。……あれ、この部屋、碌な本ないなぁ…」  ねぇ? と母さんはこちらに本を見せる。銀河鉄道の夜、そして誰もいなくなった、夢十夜。 「まぁ、アレンジしちゃえばいっか。どれにするー? 母さん的には銀河鉄道の夜がオススメ」 「……どんな話?」 「ジョバンニとカムパネルラが列車で宇宙にランデブーしにいく話。ジョバンニは男装しているカムパネルラが実は女の子だと知るんだけど、そこから二人の関係が変化してね……!」  ランデブー? と首を傾げつつ、熱の入った説明に「それにする」と返事をする。母さんはふんふんと鼻息荒くはしゃいでいるようだったが、はたと我に返るとかき混ぜていたミルクティーを俺に手渡した。 「心を込めて混ぜました! さぁさご賞味あれ!」  こくり、と飲むと下に溜まっていた蜂蜜がトロリと口の中に流れ込む。甘い。 「母さん、混ざってないよ」 「あっれぇ。でも混ぜたのよぅ? 蜂蜜、入れすぎちゃったかな」 「そうかも。甘くておいしい」 「なら、よかった」  にっこりと微笑み、母さんは俺の頭を優しく撫でる。 「元気になーれ。由に元気がないとさみしいよ」  ね? 小首を傾げる母さんに、目で頷く。気恥ずかしいからマグカップで顔を隠すようにしたのは内緒。でもまぁ、バレているのだろう。母さんは微笑ましそうにこちらを見ていた。  ご飯を食べ終わると、眠気がとろりとろりとやってくる。俺の重そうなまぶたに、母さんはふふ、と笑った。 「あら。この様子じゃ、ジョバンニとカムパネルラのランデブーはまた次回かな?」  おやすみ、由。×××××。  最後の声は、聞こえなかった。  ──…  まぶたを持ち上げる。何時だ、と腕時計を見ると夕方の五時。そろり、と辺りを見渡したところ、ここは保健室のようだった。カーテンの向こうで二人の男の声がする。 「起きたか」  俺が起きたことに気づいた男は、談笑をやめ、カーテンを開く。既視感のある香り。すん、と匂いを嗅ぐと、声の主、保険医の南部(なんぶ)先生は軽く笑った。 「もう、元気そうだな」 「お、そりゃよかった」  もう一人の声の主、田上先生は安心したように肩の力を抜く。 「……俺、なんで保健室に?」 「体育の授業が終わってもお前がぐったりしてるからって夏目が運んでくれたんだよ。後で礼言っとけ」  ククク、と笑う南部先生に、こくりと頷く。南部先生は元風紀委員長の相沢先輩の従兄弟だ。こういう笑い方を見ると、やはり似ている。  ほらよ、と湯気の出ているマグカップを手渡され、俺は既視感の正体に気づいた。そうか。だからあんな夢を見たんだ。  ありがとうございます、と俯き礼を言うと、南部先生にくしゃくしゃと頭をかき回される。唐突な行動を不思議に思い先生を見ると、困ったような視線を返された。 「なるほど、ねぇ。こりゃあ(はじめ)が心配するのも分かるわ」  はじめって誰だ、と眉を寄せるも、田上先生の下の名前だと思い出す。 「そういえば椎名、お前抜糸してから問診一回も来てないだろ。手、今見せろ」  ん、と出された掌に、包帯の巻かれた右手を乗せる。  スルスル、と包帯を解かれると、縫合跡が露わになる。 「指、動かせるか」  痛みを堪え、もぞもぞと指を動かす。 「変な感覚は?」 「指先が、痺れます」 「なるほど。神経が多少傷ついてるらしいな」  若いから自然治癒で神経は治るだろうが、と前置きした先生は俺の額にデコピンをかます。 「週に一回は問診に来ること! 分かったか!」 「……ええ…」  すっ、と視線を逸らすと頭を両手で押さえ込まれる。 「わ、かった、か?」 「……はい」  強まる語気に渋々と頷くも、先生はびきりと額に皺を寄せる。 「わかってねぇな。よし、創、こいつを毎週金曜の放課後にここに連れてこい。いいな」  一方的に任命された田上先生はチラリと俺の顔を伺うと、ふむ、と頷いた。 「仕方ねぇな」  面倒だと断るかと思われた田上先生は、あっさりと承諾した。え、と思うも、そういえばこの先生は案外面倒見がいいのだったということを思い出す。 「ほら、折角入れたんだからさっさと飲め」  横柄な態度でミルクティーを勧める南部先生に、いただきます、と断り口をつける。ミルクティーは、話している内に熱が逃げたのか、程よい温かさだった。 「うまいか」  南部先生はどこか偉そうに尋ねる。おいしいです、と言うと俺が混ぜたからな、とインスタントのミルクティーをしゃかしゃかと振ってみせた。  マグカップの底が見えると同時、どろり、溶け残った粉が口に流れ込む。まるで……。懐かしさに、ふ、と口元が緩む。コトン、マグカップを置く。ぽたり、水滴が落ちた。ミルクティーの匂いを纏った南部先生が、俺の頬をそっと撫でる。 「……椎名。つらいか」 「? いいえ?」  何でそんなことを、と首を傾げる。 「……そうか」  南部先生はそれ以上何も言わなかった。「椎名の部屋は?」と田上先生に顎をしゃくる。田上先生は不愉快そうに顔を僅かに顰める。 「204だ。俺が送る」  よっこらせ、と立ち上がった先生に手を引かれる。つられるように立ち上がる。 「全く、難儀な」 「本当にな」  南部先生はため息をつきハンカチを俺の目元に押し当てた。ハンカチからは、ミルクティーの匂いが香っていた。

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