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遠足をいよいよ週末に控えた今日。体育祭の練習、ということでSクラスとの合同授業が始まった。俺が出る種目は応援合戦と100メートル走だ。風紀の見回りもあるので少なくしてもらっている。
ぜひ、と言われ応援合戦に出ることになったが、正直何をするのか分かっていない。聞いた話だと学ランを着て旗を振るのだとかなんとか。俺は左手を痛めていて振れないので、代わりに副団長の平野くんに振ってもらう。
平野くんはサッカー部員だ。騎馬戦には馬として三浦と一緒に出場するらしい。ちなみに武者役は花井だ。花井は去年大活躍だったとかなんとか。あの張り切っている様子からして本当なのだろう。
馬役の三人(あと一人の馬は委員長だ)に向かって、「壊れかけの自転車より悪い乗り心地」と感想を言う花井に苦笑する。……頑張って応援しよう。
徒競走の練習をしようと列に並ぶ。すぐ横のトラックではリレー選手がバトンを渡す練習をしていた。
「お、お先にどうぞ……!」
ん? と声の主を見ると、俺より前に並んでいたS組の生徒だった。あわあわとした様子でどうぞどうぞと譲ってくれる。大丈夫だよ、と言って気まずくなるのが嫌で、大人しく厚意を受け取る。ありがとう、と言うとぱぁ、と生徒の表情は明るくなった。
譲られ、前に進むとまたその前の子もどうぞどうぞと譲ってくれる。いや、俺別に前に行きたいわけじゃ……と思うも、言葉を飲み込み礼を言う。譲られ前へ、前へと進んでいくと、ついに最前列へと到達した。あ、という声に隣の走者を見る。円だ。どくん、心臓が不自然なほど大きな音を立てる。は、と息を吐く。心音は緩むことなく加速した。
──ダメな子。
声が頭の内をノックする。
「ゆか、」
「この前のプリンはどうだった?」
遮るようににっこり笑い言葉を紡ぐと、円はぐ、と言葉を飲み込む。それから、わずかに戸惑った空気を漂わせながら返事を返す。
「……あ、ああ。うまかった。ありがとう」
「どういたしまして」
顔は見ないまま、クラウチングスタートのポーズをとる。
隣の円が話しかけたそうにそわそわとしていたが、気づかないフリをして前を向く。今、あの日の話を平然とするだけの余裕はなかった。心臓が、うるさい。ノックは上から下へ、下から上へと舐めるように頭を埋め尽くす。
「よーい、……どん!」
手持ちの旗が勢いよく上げられる。布が風を切るパン、という音が聞こえると同時、俺は走り出した。円が並ぶようにして走る。手を抜きたくなる気持ちを振り払い、足を動かす。ふと、ゴールを見ると母さんが睨みつけるようにしてこちらを見ていた。びくり、肩を縮こめる。
幻覚だ。
分かっていた。でも、あれが幻覚じゃなかったら? 円に張るように必死に足を動かすも、心はどこか遠くの方に向いてしまう。
もし、もし──……。がくん、上体が傾ぐ。足がもつれたのだ、と自覚したのは顔を地面に打ち付けた瞬間。円が俺より前にいることに安心すると同時、恐怖が体を支配する。ひゅ、という自分の荒い息が聞こえる。過呼吸だ、白みゆく頭で理解する。何事もなかったかのように装い立ち上がるも、依然として過呼吸は治らない。
どうしよう、どうしよう。
途方にくれ、視線を彷徨わせる。円が、俺のところまで戻ってきていた。なんで、やめろよ。お前がここにいたらお前は。
頼むからゴールしてくれ!
言葉は荒い呼吸に遮られ形をなさない。代わりに円をゴールの方向に押し返す。クラクラとする視界の中、円の瞳が僅かに揺らいだ。
「椎名ッ!」
青の声が聞こえた。
「袋もらってきた! 口当てて。吐いて……そう、吸って。吐いてー…、吸って……」
何を考える余裕もなく、ひたすら声に合わせて呼吸をする。背中をさすられながら吸って吐いてを繰り返すうちに、荒んでいた息は次第に大人しくなった。
「……は、」
「よし、もう呼吸も正常だな。保健室行くか?」
撫でるような優しい声に、ふるり、と首を振る。
「分かった、でも今日の体育は日陰で見学な」
ふわり、体が持ち上がる。姫抱きだ。過呼吸を起こしたばかりの体は気怠く、されるがままに大人しく運ばれる。体操着から香る青の匂いに強張っていた心臓がひゅるりと緩む。すり、と服に顔を寄せると青の両腕にぎゅ、と力が込められたのが分かった。
きゅ、と腕を青の首に回し、頭を肩に乗せる。青は、太陽のような香りがした。
「……眠い?」
青の声に、首を振る。くぁ、とあくびが漏れた。
「寝てもいいよ」
「……にーちゃんは怒られてない?」
「……、桜楠か」
「おーなん……」
また、あくびが漏れる。ふわふわ、太陽の匂いに肺が満たされる。すり、頭を擦り付けると額を優しく撫でられる。
「顔に傷がついてる」
「んん……いいよ……」
手にぐりぐり額を押しつけると苦笑が降ってくる。
「お前の兄貴は怒られてないよ」
「そ、っかー」
母さんの怒る表情を思い出す。また、怒られちゃうなぁ……。こわい、なぁ……。こわいよ。やだ、なぁ……。
日陰に着いたのか、地面に寝かされる。背を丸め小さくなる。ふぅ、という声とともに温もりが離れる。また、ひとりに、
咄嗟に服を掴む。
「……赤?」
眠気で重たい瞼を持ち上げ、温もりを見上げる。向けられた柔い眼差しに、泣き出しそうになる。チクリと眼球が熱くなるのを無視する。掴んだ服を手放す。
「……なんでも、ない」
温もりがどんな顔をしたのか、眠気に負けた俺には分からなかった。
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