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田辺流side
ずっとずっと、怒っていた。怒っていたのだと、今気付いた。
テスト前のある日から、何か思い詰めたように考えにふける桜楠を見ていた。もどかしいと思った。基本的に思い悩むよりも行動する派の俺は、悩む桜楠に何と声をかけたらよいのかが分からない。
口下手な桜楠は、悩み事の正体を言うことはなかったが、何に関することかはすぐに分かった。十中八九、椎名に関することに違いない。桜楠は、口よりも目の方が雄弁なのだ。
椎名が海へと飛び出した時、俺は動けなかった。
誰かの命の危機に携わったことがなかったからと言えば、ただの言い訳になってしまうが、実際その有無は大きかった。溺れている、と思った瞬間、頭の中が真っ白になった。俺が動けたのは、桜楠が椎名と夏目に救出されてからだ。
早く、温めないと。
気を失いぐったりとしている桜楠をそのままにしておけば、死んでしまうのではと怖かった。桜楠を守るようにぎゅっと抱きしめる椎名は、思考停止しているのか、呼吸を確認し水を吐き出させて以降動き出す気配がなかった。
早くしないと――ッ!
ぐらり、腹の底が煮え立つ。嫌だ。何に対してかも分からぬまま、拒絶をした。
「椎名。桜楠を渡して」
自分の中の冷静な部分が、俺の言葉に否を示す。言えば後悔すると分かっていた。それでも、焦りは言葉の続きを促した。
「桜楠は、俺が貰うよ」
「……貰う?」
呆然とした顔で反復する椎名は、言葉を覚え立ての幼児のようだった。いつもは跳ね気味の髪は、海水でへにゃりとしぼんでいる。大人しい髪型は、椎名をより幼く見せていた。
椎名の幼さで、桜楠を潰される。
桜楠を引き離し、守らねば。その感情が正しいものだと、何の疑いもなく振りかざした。正しいとか、正しくないとか、どうでもよかった。
「桜楠を守るのも、縋るのも構わない。ただ、少しでも傷つけてみろ。俺は椎名を許さない」
桜楠を奪い、抱き上げる。先程の抵抗が嘘のように桜楠はあっさりと手元にやってきた。服が桜楠の海水に濡れる。弛緩した体は、思っていたより重たい。
桜楠を抱え、別荘の中へと戻る。慌てた片岡さんがタオルを持って駆け寄ってくれる。
抱え上げた桜楠が低く呻く。生きてる。そのことに酷く安心する。やんわりと頭を撫でると、桜楠は椎名の名前を呼ぶ。思わず、絶句した。
「由、ごめ、ごめん……っ、分かんない、ごめん……」
「おう……なん?」
「ごめん由、ごめん……、泣かせてごめん……ッ」
うわごとのように苦しげに謝る桜楠は、先程の椎名の様子と重なって見えた。椎名は、泣いていただろうか。俺の記憶する限り、椎名は涙を流してはいなかった。それでも、今の桜楠の表情はあの時の椎名にそっくりで。俺はその時になってようやく、
――椎名をどうしようもないまでに傷つけてしまったのだと気付いたのだ。
後悔すると、分かっていた。
それなのに言ってしまったのは。傷つけてしまったのは。
ああそうか。俺は怒っていたのか。
ずっとずっと。桜楠が何かを思い悩むようになってからずっと。すとんと理解する。思えば何かに対し激しく怒ったことなどなかった。初めての激昂で、人を傷つけた。
正しいとか、正しくないとか、どうでもいい。
確かにそう思った筈なのに。
友達を、傷つけた。それも、桜楠を免罪符にして。
……桜楠が好きだ。でも、それは椎名を傷つけてもいい理由にならないのに。
怖い。自分が人を傷つけうると知ってしまった。そのことがこんなにも恐ろしいなんて。それでも、きっと。
今日、桜楠を、たった一人の兄弟を失いかけた椎名の方が。
よっぽどよっぽど、怖かった筈なのだ。
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