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 夏目久志side  誰の声かと思った。  喉奥から絞り出されるようにして出された悲鳴が隣からのものだと気付いた時、赤は立ち上がり海へと走り出していた。海で一緒に泳いでいた三人も、浜辺にいた俺たちも、その異変に気付くことができなかった。赤が海に駆けだしてようやく、何が起こったのかを理解する。 「赤ッ」  追いかけ腕を掴むも、赤は拘束を振り切り走る。  浮き輪を取りにいく牧田。赤を押さえようとする二村。舌打ちをし、伸びる腕を掴んだ赤は、邪魔だとばかりに拳を叩き込む。考えてそうしているという訳ではない。手負いの獣が子を守るように、周囲の全てを威嚇しているようだった。  桜楠が溺れてから時間にして一秒もない。赤は桜楠以外が見えていないかのように海へと飛び込む。海の水を割り入った赤は、桜楠の腕を掴んで引き上げる。  続けて海に飛び込んだ俺は、桜楠を抱える赤を浮き輪の方へと引き寄せた。父さん、と赤は桜楠を抱きしめる。どこか幼子じみた仕草で桜楠を引き寄せ抱えた赤は、俺の存在に気付いてないかのような態度で、牧田が投げた浮き輪にしがみついた。浮き輪により浜辺に着くやいなや、赤は桜楠の鼻に掌を寄せる。呼吸の確認か。どうやら呼吸に問題はなかったらしい。赤は桜楠の背を叩き水を吐き出させる。  赤はひたすら周囲から守るように桜楠を抱え込む。警戒する赤の目は、出会った頃の色と似ていた。赤、と呼ぶも鋭い視線を寄越され言葉が詰まる。臆する俺を制するように、田辺は赤へと近づいた。桜楠を抱える赤の目がいっそう厳しくなる。 「椎名。桜楠をこっちに渡してくれる? 様子を見たい」 「奪うのか」 「……? いや、奪うとかでは、」 「もう嫌だ、なんでいなくなろうとすんだよッ」  ――泣い、た?    俯く赤に、手を伸ばす。ギリ、と音のするほど奥歯を噛みしめた赤は、俺の手を乱暴に弾き飛ばす。上げた顔に、涙はない。険しい色を宿した瞳は、泣いてはいないのによっぽど痛々しい。 「渡さない」  赤はぎゅ、と桜楠を抱きしめなおす。抱きしめているのに、縋っているかのような。渡さない、ともう一度呟き桜楠に顔を埋めた赤に、田辺はまた一歩近づく。 「椎名。桜楠を渡して。息はできてるみたいだけど、そのままじゃ風邪を引く」 「……、」  渡したくはないが桜楠が風邪を引くのも嫌だといった反応。椎名、と宥めるように田辺は言う。 「桜楠は、俺が貰うよ」  宥めるような声でとんでもないことを言い出す田辺に絶句する。赤は呆然と田辺の言葉を繰り返した。   「……貰う?」 「椎名から奪うってこと」  敢えて強い言葉を選んでいるのか。田辺は表情の抜けた赤から桜楠を掻っ攫う。 「桜楠を守るのも、縋るのも構わない。ただ、少しでも傷つけてみろ」  俺は椎名を許さない。  言いたいことを伝えきり、田辺は振り返る。桜楠を抱き上げた田辺の表情に、俺はようやく奴が怒っているのだと気がついた。強い言葉を選んでしまうほどに。それこそ、なりふり構わず牽制してしまうほどに。こいつはずっとずっと怒っていたのだ。 「赤。赤も体を温めよう。風邪引く」 「……、」  何も返事を返さない赤の背に手を添え、屋敷へ誘導する。呆然と虚空を見つめる赤は、どこまでもひとりぼっちだった。  

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