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 返事は要らないと言う神谷の言葉に甘え、その後は何事もなく学園に着いた。道中周囲の視線を強く感じたが、それはスルーだ。俺だって突然の言葉に戸惑っているのだから勘弁してほしい。 「じゃあ、また夏休み明けに」 「……ああ」  やたらいい笑顔を顔に乗せ宣う神谷に、若干腰が引ける。こんなに強かな雰囲気を持った男だったか。首を傾げると、神谷はむすっと眉を顰める。 「……なんですか」 「……雰囲気変わったなぁと思って」  バスの中でも似たようなことを言ったが、無論あの時と今とでは指しているものが違う。苦々しそうに口を歪めた神谷は、プイとそっぽを向き、自身の旅行カバンを肩にかけ寮へと歩きだす。 「……僕だって、ほんとは勝ち目のない勝負に出る気なんてありませんでしたよ」 「勝ち目、ねぇ」  勝ちが何を意味するか、分かっているつもりだ。暗喩じみているくせに何も隠さない神谷に微妙な気持ちになる。複雑そうな俺に気付いたのか、神谷は足を止めて振り返り、にっと口元をつり上げた。 「勝負に出たからには、勝たせてもらいます。では先輩、」  せいぜい夏休みに骨休めでもしておいてくださいね。  不穏な言葉を最後に、今度こそ神谷は歩きだす。 「……お手柔らかに」  声が聞こえたのか、前を進む神谷はひらひらと適当に手を振った。 * 「……悪いな、青まで付き合わせて」 「いや、大したことない。中学の頃はよくこれ使って街に降りてたから、手慣れたものだ」  交流会も終わり、二日後。俺と青は帰省するべく電車に乗っていた。ゴールデンウィークの時のように本来なら一秀が迎えにくる筈だったのだが、忙しくて都合が合わなかったらしい。悪いが電車使って帰ってきてくれ、という一秀の電話に頷いたのは昨日のこと。ならばと電車で一緒に帰る提案をしてくれたのは青だった。 「中学っていうと、……夜遊びか?」 「そうそう。Coloredとか、その前のふらふらしてた時期とか」 「……公共交通機関を利用して街に出て夜遊びしてた訳か。シュールだな」  ガタンゴトンと電車に揺られ街に出る中学生を想像し、思わず微苦笑する。青は外出届も出してたぞと笑う。外出届……。それはまぁ、なんというか。 「不良なのか単なる優等生なのか分かったもんじゃないな」  根が真面目だとグレ方も相応に真面目さが残るということだろうか。 「高校になってからは二輪免許を取ったから、バイクで抜け出してびゅーんだ」 「外出届は?」 「前日に出してる」  笑い声を零す俺に、青はにやりと頬を緩める。 「という訳で電車で学園と街を行き来するなら俺に任せてほしい」 「っふ、頼んだ」  少し得意げなのがまた笑いを誘い、肩を震わせる。俺の姿に目を細めた青は、ふと表情を消し、流れゆく窓の外の景色を眺める。 「……赤。神谷に告白されてたな」 「……ああ。された、な」  何食わぬ調子で言おうとし、言葉の切る場所を間違う。ずるりと膝から落ちかけた荷物を引き上げ、腕に抱き込む。窓の外は雲一つない快晴で、荷物を抱えた腕に光が差した。本格的な夏の訪れを感じる温度に、荷物を持つ手を下にずらす。 「どうだった?」 「どう、とは」 「ときめいた?」  ふざけているのかと思われた青の表情はしかし真剣で。いつもの戯れた雰囲気を霧散させた眼差しに居心地の悪さを感じ、視線を床に投げた。 「……実のところ、よく分からねぇんだよな」 「分からない?」  ぽつり、零した俺に青の声が問い返す。 「……余裕が、なくて」  弱音を吐くのはまだ少し決まりが悪い。散々弱った姿を見られた今となっては今更感すらあるが、割り切れないものはやはりある。視線を落としたまま、俺は言葉を続けた。 「もちろん、俺を好きだと言ってくれるのはありがたいと思うさ。でもさ、俺には……、気になることがありすぎるんだよ」  円に記憶喪失の事実を突きつけたこと。一秀の行動の違和感。円と田辺の関係。先日苦手な海水に身をさらしたことも、幼い日の記憶が刺激されて疲労感を訴えた。  疲れた、もう休みたい。寝ても覚めても、その思いが頭から離れない。休みたいのに、考え事の内容は増えるばかり。一向に頭の休まる暇がない。トドメとばかりに、青のことをまともに見ることさえできなくなった。そわそわしている暇なんてないのに、優しい声が妙に気恥ずかしいのだから最悪だ。  座席に腰掛けたまま伸びをし、掌で顔を隠す。カタン、カタンと電車は等間隔に車体を揺らす。 「……流石に、ちょっと疲れた」  車輪が線路を走る音、予定の駅に近づいたことを知らせるアナウンス。スピーカー越しの声はどこか機械音じみている。放送が終わり、再び車内には車輪の刻む音がこだまする。そうか、と青の掠れた声が音の狭間で小さく聞こえた。 「じゃあ、休もうか」  カタンカタンカタン。  返事はできなかった。アナウンスが到着を知らせる。青は荷物を持ち、立ち上げる。そして俺を引っ張り上げ、声をかけた。 「さぁ赤、着いたぞ。夏休みだ! ゆっくり過ごすぞ!」  日の光が差し込む。逆光は青の表情を隠した。降り立ったホームの看板には、俺たちの街の最寄り駅の名前。帰ってきたのだ、そう実感すると共に、ほんの少しの恐怖が胸に訪れる。 「……そうだな、休もうか」  蒸し暑い風は声を攫い、その額に汗をにじませる。夏が来たのだ。家へと続く道は、陽炎にその輪郭を滲ませていた。  

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