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「た、だいま」
家の用事があるからと言う青と別れ、徒歩で帰宅する。緊張で体の強張っている自分に気付き、はっと息を吐く。夏休みの間母さんはいないと予め伝えられていたのにこのざまだ。
「あっ、由おかえり!」
顔をしかめる俺に、奥から顔を出した修二が駆け寄る。声の数がいつもより少ないのに首を傾げると、「父さんと兄貴なら今いないよ」と教えてくれる。
「二人ともっていうのは珍しいな」
独りごちる俺に修二が何とも言えない表情をする。考え込むように沈黙を落とした修二は俺の視線に気付き、からりと笑った。
「ま、折角兄貴がいないことだし、夏休みの間は俺が丹精込めてお世話するから!」
「夏休みの間?」
そんなに一秀は不在がちなのだろうか。俺の疑問に答えるように、修二はこくりと浅く頷く。
「兄貴は私用で夏休みの間いないことが多いんだよね」
「そっか」
ぎゅ、と眉間に皺を寄せた修二は、面白くなさそうに吐き捨てる。修二は相槌を打つ俺の背をそっと押し、家の中へと促した。
「暑かったでしょ。飲み物入れるよ。仏壇に挨拶したらダイニングにおいで」
爽やかに笑み、修二は俺の荷物を受け取る。促されるまま父さんの部屋に向かう。足音一つすら鼓膜に張り付く静寂。懐かしさを感じさせるそれに、俺は思わず口元を引きつらせる。
「……、」
きぃ、と小さく音を立て、扉が開く。修二が線香を焚いてくれたのだろうか。部屋は白檀の香りが漂っていた。遺影の前で手を合わせる。
「……ただいま帰りました」
返事のない挨拶をここでするのは何度目か。そんな益体もないことを考えながら、俺はごろりと横になる。壁を見ると代わり映えのしない青い海の絵。ついこの間まで行っていた青の別荘を思い出す。唇を噛みしめ、押し殺すようにぽつり、呟く。
「……海なんか嫌いだ」
白檀の香りを振り払い、部屋を出る。仄かな芳香は、名残惜しそうにふわりと香った。
*
はい、と差し出されたグラスを受け取る。
「一秀の“私用”は、母さんがいないのと関係あるのか」
不意打ちを狙って尋ねると、修二はびくりと硬直する。答えはそれで充分だった。目を眇めると、修二は一瞬目を伏せる。うん、という返事は消え入りそうな声量だった。
一秀の私用は、母さんに関係するもの。そして母さんは、夏休みの間家を空けている。考え、結論を出す。母さんに何かがあったのだ。それこそ、思わず一秀が沈黙を選んでしまうような何かが。
「母さんに何があった」
「ごめん、由。言えない」
「っ、なんで……!」
「それが畠の判断だから」
瞳を揺らし、しかしきっぱりと修二は言う。畠の判断。つまり、この件に関しての答えは、畠さんからも、一秀からも、そして修二からも得られないということだ。
「……そうか」
あっさりと引き下がる俺に、修二はほっとした顔をする。修二のリアクションを目に収めながら、俺は表情を動かさないまま言い放つ。
「なら、自分で探る」
飲み干したグラスをテーブルに置き、ダイニングを後にする。焦った修二の声はもう耳に入らない。母さんがいない。その理由を俺が知らないなんて、そんなふざけたことがあっていい訳がない。
俺は母さんと円、二人を守るために生きていて。円はもうきっと大丈夫だから、あとはもう母さんしかいないのに。どうしよう。思考が乱れ、所作が乱暴になる。
がたん。
大きな音と共に開けたのは畠さんの執務室。
机の引き出しを開け、ファイルを漁る。どこかに。どこかにどこかにどこかに。あるはずだ。母さんの手がかりがこの家に。無心でファイルを次々に引っ張り出す俺を、追いかけるように部屋に入った修二が静かに見守る。部屋を全てひっくり返した俺は、手がかりが全くないことに呆然と座り込む。床は俺が散らかした書類ですっかり隠れている。
「由」
かけられた声に、ノロノロと顔を上げる。くしゃりと表情を崩した修二は、慰めるように俺の背を撫でた。
「手の治療をしよう。紙で切れてる」
優しく擦られる指先を、何ともなしに見つめる。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちだった。空虚な気持ちも露わに呟く。声が聞き取れなかったらしい修二は、「何?」と小首を傾げる。
「……ここには、ないんだな。この家にも、どこにも、母さんがどこにいるか伝えるものはないんだな」
それが、畠の判断なのだ。
畠の人間が、俺の行動を予測しない筈もなかった。
俺に母さんの不在をここまで堂々と伏せたということはすなわち、手がかりは予め全て隠されているということだ。
「俺では、母さんを、」
見つけられない……?
言葉の続きは、声に出せなかった。言ったら本当にそうなってしまう気がして。
修二の出してくれた飲み物が、今になって胃を冷やす。額を濡らす汗が何によるものか。今の俺にはそれすらも分からなかった。
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