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「ほら、なにも今生の別れって訳じゃないんだから」
「でも、」
渋る兄に大丈夫だからと手を握る。薄らと眉を緩めた円は、きょろりと周囲を見渡した。
「母さんは?」
「寝てるみたい」
「最近魘されてたもんな」
納得を見せた円にゆるりと微笑む。円が表情を失ったのと入れ違いで母さんは体調を崩していた。円に吐いた嘘に信憑性が増したのは不幸中の幸いだった。子としては薄情な感想に嫌気が差す。母さんと円を守りたい。そのために頑張っているはずなのに、その努力を台無しにしているのが自分自身なんて笑えない。
溜息を吐くと円はきょとりと首を傾げる。
「由、体調悪いだろ。母さんの熱が移ったんじゃないか」
「んー。そうかも。顔色悪い?」
「ああ、大分。父さんが死んでからバタバタしっぱなしで……。なあ、やっぱり延期しないか? それか、暫く由も叔父さんの家に来るとか。母さんも一緒にさ」
「やー。にいちゃんが寂しいのは分かるんだけどね? 畠さんに任せっぱなしは良くないし」
久しぶりの愛称を口にすれば、円の表情はふわりと緩む。我が兄ながら単純だ。
円の提案も尤もなのだ。一般家庭であるならまだしも、こと椎名が家長を失ってすぐに長子を養子に出すなんてあり得ない。父さんの遺したものはいい意味でも悪い意味でも大きい。俺たちと母さんの三人くらい、遺したもので食わせることはできるのだ。
何より、養子に出されるのが長子であるというのが一番のネックだったりする。数分差とはいえ、俺は弟で円は兄だ。家制度も廃止されて久しい今、次男の俺では椎名を継げないなどと抜かす奴はいないが、それでも潜在的に長男が家を継ぐという意識は蔓延っている。要らぬ憶測だって招くだろう。それでも、この養子縁組の目的が円の避難である以上、強行しない手はない。
俺が正当な跡取りとして見られないなら、実力で示す他ない。この養子縁組が俺の仕組んだものだと悟らせる訳にはいかない。悟らせたが最後、俺は簒奪者となり、円は俺に家を追われた被害者になってしまう。それは円を傷つける。それを避けるため、叔父さんに話をつける役は畠さんに頼んだ。この養子縁組の背景を知るのは畠さんと俺二人だけだ。ふぅと溜息を吐く俺に、円は顔を曇らせる。
「ほんとのほんとに大丈夫か? 寂しいし一緒に来ないか?」
「はは、さみしんぼさんめ」
揶揄うように言おうとするも、声を作るのに失敗する。
「……ごめん、一緒には行けない。ねぇ、円。お願いがあるんだ」
「……、ん?」
隠すと決めたくせに。
失敗したついでだと半ば開き直って口にする。
「頑張れって言って」
「嫌だ」
間髪入れずに断る円に苦笑する。
「お前がそんなお願いする時は碌な事がない。すっごい嫌な事隠されてる気がする」
「やだな、そんなことないよ」
「いや、ある。基本おっとりした性格のお前がそういうこと言うんだ。間違いなく碌でもない。休め」
聡いお兄様なことで。
完全に見透かした円の言葉に顔を顰めた。
「ねぇ兄ちゃん。お願いだから」
兄ちゃんが応援してくれたらなんでもできる気がするんだ。兄ちゃんは俺の憧れだから。ねえ、だからお願い。
「もうそれが最後でもいいから」
知らず、泣きそうな顔をしていたらしい。円は困ったように眉を寄せ、俺の頭を撫でる。
「……頑張れ。困ったら俺が助けるから」
「たす、け?」
「なんだよ。もう会わないなんて言うなよ。今生の別れじゃないって言ったのは由なんだから」
「……うん」
ぐりぐりと頭をなぜる手は俺と同じ大きさで。円の手に頭を押しつける。さみしんぼ、と円は俺の言葉を真似る。やけに優しげな声音に顔を顰める。離れがたくて仕方ない。
俺の片割れ。憧れ。俺の、にいちゃん。
円の両耳を手で塞ぐ。不思議そうな顔をした円はしかしそれを妨げようとはしなかった。円に聞こえないよう、小さな声で弱音を吐く。
聞こえませんように。それでも、聞いてくれますように。
矛盾した気持ちで頭の中はぐちゃぐちゃで。ただひたすらに心細かった。
「俺を忘れないで。俺を置いてかないで。独りにしないで。痛いのは嫌だよ。名前を間違えられるのは寂しいよ。俺がいなくなるみたいで、胸が冷たくなる。にいちゃん。俺、嘘吐いてるんだ。俺、嘘つきだけど、もうきっと会えないけど。俺を、」
助けてくれる?
続けたかった言葉は、途中で切れた。引っ越し業者と話していた大人達が戻ってきたからだ。
「円くん。言ってた荷物はもう大体トラックに入れてもらったけど。他にはないかな? ないならもう行くけど」
由くんともっと話すかい。
優しく問う叔父さんに、円は俺の表情を伺う。へらっと笑いいつも通りを装った俺は、行くなら父さんに挨拶してからにしなよと提案する。
すっかり意味するところの変わってしまった『父さんへの挨拶』に、円は曖昧に頷く。父さんが死んだ。まだ誰も、受け入れることができていない。母さんや円、そして俺も。
びびりで、ネガティブで、子供っぽい人だった。海が好きで、母さんが好きで、俺たちのことが好きだった。泳げもしないくせに、海流に引きずり込まれた円を助けに飛び込んだ。
父さんの部屋のドアを押し開ける。海の絵が目に入ったのか、円はくっと目を眇める。
「どうしたの」
「……なんか、海ってヤな感じがする」
「父さんが悲しむな」
口では揶揄ったが、俺は内心そうだろうなと思っていた。目の前で父さんが死んだばかりか、その発端は自分にあるのだ。忘れているとはいえ、嫌悪感が残るのも無理はない。口に出しこそしなかったが、俺だって海を好きな父さんに共感できなくなったことは分かっていた。海を通して父を見る。そんな些細なことすら苦しい。
父さん本当に海が好きだったよね、なんて。軽口として思い出を語れない。それが堪らなく寂しかった。
手を合わせ、目を瞑る。隣で同じように手を合わせている兄が何を思っているのか気になった。
今日という日が兄を苦しみから救ってくれますように。それから。それから。
――兄が、たまにでいいから俺を思い出してくれますように。
円にバレたら、父さんは神仏じゃないぞ、なんて言われそうだけど。俺の好物を全部あげるから、だから。お願いだから、俺の片割れが救われますように。
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