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 円が家から離れてから数年。俺は小学生になった。一秀は円が桜楠学園の初等部に入ったことを教えてくれた。叔父さんの経営する学園だと教えてくれた一秀に、どんなところ、と尋ねたのを覚えてる。怖くないところだ、と教えてくれた一秀は、どんな気持ちで俺に教えてくれたのだろう。知りたいような、知りたくないような。まぁ、知ったところで今更だ。    母さんは薬の効いている間だけかつてと同じ表情を見せた。当時の俺はそのことに安堵を覚えていたが、もしかしたら徹底的に壊れている方が母さんにとっても俺にとってもよかったのかもしれない。子供に危害を加える自分に失望して、母さんは少しずつ、少しずつ壊れていった。それでも、優しいかつての母さんはそんな狂気と確かに共存していて。いっそ、親からの愛を諦めることができたら。……なんて。時間が巻き戻ったところで、俺は同じ選択肢しかできないだろうけど。 「……由ぃ? 体調悪い時はそう言えって前にも言ったよな?」 「だって熱あるって知らなかったし」  ぷぅと頬を膨らせるとかずにぃは困ったように顔を顰める。額に当てられた手が冷たい。きもちい、と呟くとかずにぃは仕方ないなと皺を緩めた。 「とにかく。由は熱があるから今日一日じっとしてること!」 「えー」 「返事!」 「はーい」  大人しくしてろよ! とドアを閉めながら再度言い聞かせるかずにぃに手を振り、大人しく横になる。暇だなぁ、と天井を見ていると控えめなノック音がする。かずにぃかなという予想に反し、現れたのは母さんだった。罪悪感に濡れた目を見るに、今は薬の効いている時間であるらしい。 「ミルクティーをね、淹れてきたの。由が好きな、蜂蜜入りのだよ」  微かに怯えた俺に、母さんはごめんねと謝る。違うと首を振るも、まるで説得力がない。触ってもいい? 尋ねる母さんにこくりと頷く。俺を怖がらせないためだろうと理解して、悲しくなった。こんなの、全然前と一緒じゃない。  母さんの手がするりと額を撫でる。熱いね、と触れる手が優しくて、遠慮がちで。嬉しいのに、その触れ方に泣きそうになる。俺の表情にごめんね、と母さんが眉根を寄せた。違うのに。俺が欲しい言葉はそんな言葉じゃないのに。 「母さんは、俺のこと嫌いじゃない?」 「ッ、嫌いじゃない! 大好き、大好き。愛してる。ごめんね、傷つけてばっかりでごめんね」 「……ううん。にぃちゃん、は? 嫌いじゃない?」 「嫌いじゃない……ッ! 嫌いな訳がない」  二人とも私の宝物だもの。  ぽろりと母さんの目から涙が零れた。母さんの細い指が俺の目の下を掬ったのに、自分も泣いているのだと気付く。ぼろぼろと止まらない涙。……そういえば父さんが死んでから初めて泣いたな。  母さんが辛そうな顔をするから涙を止めたいのに止まらなくて。ぎゅうと抱きしめてくれた母さんの背にそっと手を回す。 「寝るまで傍にいてくれる?」 「うん、いるよ。可愛い可愛い……私の、息子」 「……そっかぁ」  いてくれるんだ。  嬉しくて、ゆるりと口角が緩む。幼稚園のころに戻ったかのような、穏やかな時間。熱でぼんやりと霞んだ頭が、嬉しいなぁと小さく浮かれる。安心した俺は、手渡されたミルクティーをこくりと嚥下する。  蜂蜜の仄かな甘さに眠気を促される。大丈夫、寝ても母さんはそこにいる。誘われるがまま目を閉じた俺は――。 ***  回想を一旦止め、修二のくれたお茶を飲む。グラスの滴はすっかりテーブルを濡らしていた。喉を通る液体は生ぬるくて気持ちが悪い。  暗雲の立ちこめていた窓の外では雨が降り始めていた。 「このまま続きを聞くか? 雨、酷くなったら帰るの大変そうだけど」  念のため確認すると、五人は真剣なまなざしでこくりと頷く。 「ま。帰れなくなったら泊まればいい。この家は不相応に広いんだから」  客間の準備が必要か。あくまで続きを聞く様子を見せた面々に姿勢を改め、口を開く。 「……修二はこの時期まだ来てなかったか」  修二が椎名に顔を出しはじめたのは俺が中学三年生の頃だったから。呟く俺に修二は首肯を返す。 「……まぁ、その。なんだ。俺が起きた時、家には誰もいなかった。多分、予想より俺の起きるのが早かったんだと思う。母さんは約束を破るような人じゃないから、何か不測の事態が起こったんだろうなと思った」  続きを言うのが憚られて、思わず続きを濁す。強くなった雨脚に、そのまま全てが壊れてしまえばいいのにと馬鹿な妄想をする。冷静に話をしようと小さく息を吐いた。 「思ってたより、状況は悪かった」  あまり効果がなかったようで、出した声は震えていた。 「母さんは、俺が、」  声が喉に絡みつく。無理矢理話そうとするも、口は何を発することもなく無様に開閉した。喉の調子を整え、仕切り直す。へらりと笑って、口にする。 「起きたら、母さんは俺が死んだと思い込んでた」  ちゃんと、なんでもないように聞こえただろうか。淡い期待。馬鹿みたいだと自嘲する。この後に及んでまだそんなことを考えているなんて。 「俺は、海で父さんと一緒に死んだらしい」  薬の副作用か。それとも症状が悪化したのか。なんにせよ、救われない。  痛そうに顔を歪めた五人を前に俺は続きを回想する。思い出すのは、やはりあの日。俺が、この家が、徹底的にあり方を変えてしまった、中学一年のあの事件だ。  

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