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4-62 桜楠円side
「また由に負けたの、円。……ほんと、ダメな子」
目の前では少年が母親に押し倒されている。決して逃げることを許さないといった体勢に、少年の身がびくりと震える。あれは俺か。身長からすると、幼稚園の頃だろう。
「ごめんな、さい」
怯えた様子が気に入らなかったのか、母親は子供の小さな頬を叩く。打たれた頬を手で押さえた俺は、ふとこちらに視線を投げる。目が、合った?
ショックを受けたようにこちらを見る俺が、呆然としながら「なんで」と口を動かす。目の前の俺は痛ましそうに顔を顰めると、声もなく呟いた。
まどか。
ふる、と首を振った少年が何を言ったか理解する。……そうだ、あれは俺じゃない。あれは由だ。
逃げろ、見るなと必死に目で訴えながら、由は目の前で打たれていく。隔てたドアが煩わしい。助けなきゃと思うのに、体は微塵も動かなかった。由の瞳が俺に言う。
助けて。
「~~~~~~ッ!?」
転がるようにベッドから飛び起きる。びっしょりと汗をかいていて気持ちが悪い。息を整え、布団の外に出る。とにかく喉が渇いていた。
コップに入れた水を飲み干す。よく冷えた水に気持ちが落ち着く。時計を見ると午前五時三十分。夏の日の出は早く、窓からはすでに朝日が差し始めている。いつもより早く起きてしまったが、二度寝するには微妙な時間だ。俺は諦めて大人しく朝食を取ることにした。
やかんに火をかけ、コーヒーの準備をする。ふつふつというやかんの音を聞きながら、俺はそういえばと考える。
「すごく大事な夢を見た気がする……」
ずきん、コメカミが痛む。由に「全部忘れている」と言われた日から時折こうなる。何かを思い出した気がしては忘れる。その繰り返し。
由が忘れていると言うからにはそうなのだろう。そう信じ、思い出そうとしているのだが、そのたび頭痛に襲われる。
「全部忘れているくせに、か……」
俺は一体何を忘れているのだろう。何を、由に押しつけてしまったのだろう。あの日の慟哭は由の精一杯のSOSだ。だからこそ、早く全てを思い出して由を助けにいかなくては。焦れば焦るほど頭痛は増す。まるで思い出すなというように。
お湯の沸く音で我に返る。そうだ、火を止めないと。
明日は始業式。あと少し。あと少しで思い出せる気がするのに、そのきっかけが掴めない。些細なものでいい。何か。何かないか。イライラとコメカミを押さえる。何もできない。そのことが酷くもどかしかった。
***
「静粛に」
マイクを通し呼びかける。長期休暇を経たからか、静かになるまで時間がかかる。いつもであれば注意をする役割の田辺も、風紀の方を気にするばかりで動かない。
困ったな、と考え思い出す。そうだ、由の方法を真似してみよう。小首を傾げ、笑みを浮かべる。何気にこれが一番難しい。
「静かに、な?」
息を呑む音の後、波紋のように静寂が広がる。あぁ、やっぱり由はすごいな。由を見ると、なぜかショックを受けたように呆然とこちらを見つめている。なんで、と口の動くのが見えた。
「ッ――!??」
途端、頭痛に膝から崩れ落ちる。記憶の奔流に頭の中が真っ白になる。頭を押さえ、俺は意識を手放した。マイクを手にした自分が、何と言ったか知ることもなく。
【五章に続く】
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