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 朝。教室に行くと机の周りが賑わっていた。俺の存在に気付くと一様にぎょっとする面々に嫌な予感がする。見るなと止める声を聞きながら俺はそれを、見た。  死ね  油性マジックでデカデカと書かれた机。なんとか消そうとしてくれたのか、机には拭き取った跡があった。 「椎名ッ」 「……え、あ……、」  肩を揺さぶられハッとする。眼前には委員長と平野の顔。動揺しているな、と自分の中の冷静な部分が呟く。心配そうに俺を見つめる二人に返事をしようと思うも、上手くできない。 「椎名、机は俺達が新しいの貰ってくるから!」 「顔色が悪いよ。保健室行こ、ね?」  委員長の手が背を押す。反射的に手を弾く。驚いた委員長の顔で我に返る。ごめ、と無様に言葉が崩れた。 「……ごめん。一人で、いい」 「……、そう?」  気遣うように笑んだ委員長の顔は、困り顔に似ていた。うんと小さく答え、教室を後にする。ドクドクと心臓が強く脈打つ。口を開けば何を言ってしまうかといった衝動に、口を強く引き結んだ。  もつれる足を強引に前へ進め、中庭に出る。花壇の横にしゃがみ込み、腕に顔を伏せる。死ねだとか、消えろだとか。喧嘩の最中にも山ほど言われた。言われたところで何も思いやしなかったし、聞き流せた。それなのに、なぜ今更。  ぴしゃ。 「あ」    思考を遮るように水が降る。短い声が聞こえた。顔を上げるのも億劫で、滴る髪をそのままにする。花壇の水やりをしようとしたのだろう。悪意がない。分かっていてなお心が痛い。俺はこんなに弱かったか。 「あの、すみません。まさか人がいるなんて思わなくて」 「……、」 「このタオル使ってください。……本当にごめんなさい」  おろおろとした声に頷き、手で離れるよう促す。足音は遠ざかり、また寄ってくる。戻ってきたのかと顔を上げる。   「何してるんですか。風邪引きますよ」 「吉衛、先輩」  呆れた顔をした吉衛先輩にあれと思う。何だかいつもと違う、ような。 「うちの隊の者ですか」 「……えっ?」 「うちの隊の者に水を掛けられたんですか」  他のことに気を取られ反応の遅れた俺に、先輩は質問を繰り返す。 「いえ。これは花壇の水やりの巻き添え、で」  そうですか、と先輩は平淡な声を返す。興味を失ったのかその場を立ち去ろうとする先輩に思わず声を掛ける。 「先輩。何か変わりました? 髪、とか」  ぴたり。足を止めた先輩はくるりと振り返る。無言ながらに全力で呆れていることだけは伝わってきて。うっと首を竦めて縮こまる。 「変わったのはあなたでしょう」 「えっ?」 「僕のことを前みたいに変な目で見なくなった。誰か越しに見るようなあの気味の悪い目です。一体誰を通して見ていたのやら」  俺と円を見分けてほしい。名前を呼んでほしい。叱られたい。  ――そう、願っていた相手は。 「母さん」 「はぁ? 誰がお母さんですか。不愉快です」  ぶん殴るぞとでも言いたげな顔。睨み付けられ苦笑する。誰も先輩を母さんとは呼んでないだろうに。重ねてはいたが。  それを重ねなくなったのは。  ……求めていた他の欲求が満たされたから。それに他ならないだろう。  脳裏に兄の顔が浮かぶ。一人じゃない。もう分かっている。無理もできない。それも理解している。大切に想ってくれてる人がいる。だからだろうか。  今。初めて悪意に恐怖を抱いている。  何をされてもどうでもよかった。怖くないし、痛くもなかった。だから、知らなかったんだ。 「悪意って怖いもんなんですね」  ぽつり、呟くと先輩は鼻を鳴らして嘲笑う。 「だから僕たち親衛隊がいるんでしょう。円様にも、あんたにも」  すいと花壇に視線を移した先輩は顔を顰める。花壇になっているのは……にんじんか。にんじんを嫌がる先輩が人間くさくて。いつもより身近な存在に感じる。その質問が口を突いたのは、親近感ゆえかそれとも何も考えていなかったのか。 「先輩。恋ってなんですか」  友達のような。そんな質問に、先輩の表情が一瞬無防備になる。ぱちりと目を瞬かせた先輩は、そんなのと口を動かす。 「ここが自分の居場所だと、そう叫びたい気持ちのことですよ」  ――僕で言う親衛隊長の座のように。  艶やかに、鮮やかに。うっそりと、初めて会った時のように笑った先輩に、綺麗だなぁと思う。恋ではない。母さんと重ねて見ていた、そんな不純で自己中心的で、傍迷惑な感情だけど。名前を付けるとしたら、やはりこれは愛なのだろう。  先輩を見送り、ぼんやりと眺むれる。おーいという呼び声に目を向けると、青の姿。 「保健室にもいないし、連絡も返ってこないし! 心配するだろ!」 「青」  ばくり。心臓が大きな音を立てる。肩に掛けたタオルを頭に乗せ直し、わしゃわしゃとかき混ぜられる。青の大きな手が頭を包む。顔が、近い。 「まだ顔色が悪いな。保健室行くぞ、ほら」  青は中腰に屈み、俺に手を差し伸べる。手を重ねようとし、躊躇する。青は中途半端に伸ばされた手を取り、ぐいと引っ張る。腕を引かれるようにして立ち上がり、息を呑む。  こいつの隣は俺の居場所だ。  触れた手。伝わる体温。柔い感触。関節が骨張っていて、少し硬い。  ばくり。ばくり。  手が心臓になって、青にこの気持ちが伝わってしまうのではないかと思った。  どうしよう。だってこんな気持ち知らない。……ときめきで息ができない。ぽろ、と涙が一粒目尻を零れる。  ――好きだ。友達とか、家族だとか。そういう枠に入らない夏目久志って別枠でお前が好き。  ああ、どうしようもなく。  青が困った顔をする訳だ。だってあんなの、告白じゃないか。 「……あお」 「どどどどうした?! どっか痛いか!?」  零れた涙に青が狼狽える。嬉しくて、温かくて、気持ちの大きさが少し怖い。全部が全部他人のものみたいな。自分が自分じゃないみたいな。  ――返事は、赤が恋愛感情を理解してからでいいから。  橙は、分かっていたのだろうか。俺が吉衛先輩を母さんに重ねていると。気付いて、いたのだろうか。  俺が、どうしようもなく青に惹かれていると。   

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