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キーボードを叩く音が忙しない。時折舌打ちを交えながら、橙は怒濤の勢いで二台のノートパソコンを操っている。
俺達が風紀室に戻ったことに気付いたのか、一瞬視線を向けられた。しかしそれどころではないのだろう。すぐに視線は元に戻る。手が別の生き物のように動く。右と左。流れる情報を橙の瞳は裁いていく。暫くして、橙は両目を瞑り、ソファーに背を預けた。ふぅ、と深く息を吐いたのを見て、一段落付いたのだと分かった。
「どうだ」
「………、」
二村の端的な問いに、橙は眉根を寄せる。心底嫌そうである。二村の額に皺ができた。
「…………分かった」
「ッほんと!?」
長い沈黙の後、顔を背けながら橙が答える。食い気味に牧田が問う。その反応に大きな舌打ちが返る。橙のリアクションも意に介さず、牧田はそれでっ?と隣を陣取りパソコンを覗き込む。
「……勝手に俺のもの覗き込まないでくれる」
「で、誰があの写真撒いたのさ」
爪先で机を叩き早く話せと促す牧田に、橙は重い口を開く。
「多分こいつ」
覗き込む牧田を無視し、橙は俺の方にパソコンの向きを変える。牧田の不満げな顔は無視か。牧田の口角がぴくりと引き攣る。二村は相手にしないと決めたのか、黙って俺の隣に位置を寄せる。
証拠のないのが残念だけどと前置き、橙は説明を足す。
「越賀羽(ゴシ・カバネ)。三年生で、非公式の親衛隊持ち。今までつかず離れずな関係を保ってたみたいだけど、今回の件でそれも怪しくなったね」
「非公式?」
非公式親衛隊は風紀委員に限られる体制かと思っていたが。ああと橙は頷く。
「本人が親衛隊の結成を許可しなかった、らしい」
「見るからに自尊心高そうな感じなのに? 後ろ暗いことでもあるのかねぃ」
「つか、俺達に非公式の親衛隊が認められてるのは風紀の管理が保証されてるからだろ。風紀以外に非公式の組織認めたら駄目じゃないか?」
新たな声が口を挟む。今まで出張っていた青が戻ってきたらしい。後ろには薄い汗を額に浮かべたF組連中の姿。あれは三年生か。
「チッ」
「なんで舌打ちした?」
「青だから」
「気を遣え? オイ、えっ?みたいな顔してんじゃねぇ腹立つな」
いい笑顔で話を聞き流し、橙はすっくと立ち上がる。
「非公式の非公式親衛隊。それが越のファンクラブ、だよ」
にたり。音が聞こえそうな程不敵な笑み。離れたところで聞き役に徹していた神谷が一歩こちらに歩み出る。俺の視線に気付いたのか、やけに大人びた面持ちで目を細める。うっと腰が引ける。この雰囲気は、苦手だ。
「こいつの指摘もあったとおり、越はかなり目立ちたがり屋だ。中等部の頃にはミスターコンに出てたし、一昨年には生徒会役員に自推薦してた」
「自推? その制度使う人いたんですね」
ほとんど呟くように神谷が言う。なるほど、自推薦はマイナーなのか。確かに、補佐に選ばれた時点で内定しているような生徒会選挙だ。マイナー扱いされても仕方ないのだろう。
「一年生で選挙とか……。で、結果は?」
「惨敗。一昨年も自推薦してたみたいだけど、結果はお察し。今年は三年生ってことでそもそも参加できないしね」
なるほど。名前を聞いたことがない訳だ。
「全ての組織が認められないと活動できない訳じゃない。誰に認められなくとも活動はできるんだ。名前のない烏合の衆としてね」
クス、と橙が笑う。妙な色気を孕んだそれは、背筋が冷えるような冷酷な響きを纏っていた。
「さて。その連中が昨夜、妙な統率感をもって活動してました。勿論、名のない組織員だから顔の割れてる奴らばかりじゃない。でも越に親衛隊の結成を蹴られた奴の顔は分かる。そいつだけは明確な接触が、他の奴の目に映った接触があるからだ! ねぇ――、一体指揮者は誰だろうね?」
ごくり、誰かの喉が鳴る。ハハと軽い笑い声を上げた橙はしかし鋭い光を目に宿し、再びパソコンを操る。素早く切り替わる画面の数々は目で追えない。すっかり自分の世界に入った橙だったが、はたと手を止める。それからしっかりと目をこちらに向け、橙らしくもない小声でぽつりと言った。
「……ねぇ赤。好きだよ」
音が、消えた。
――ああ。
本当に、橙はよく見てる。
いつもと同じ告白のようで、明らかな異質。優しくて、甘くて、残酷な。好きだと言いながらその結末を自分で既に決めている。それを俺に言えというのか。なぞるように、思うままに。
いや……、違う。それを言わないこともまた残酷なのだ。
「橙」
「……っん?」
「ありがとう」
「……、うん」
くしゃり。先程不敵なそれを乗せた顔とは思えないほど、無邪気な。少年じみた顔で橙が笑う。そういえば橙は年下だったのだと、その時不意に思い出した。
「俺も橙が好き、だけど。それは橙の気持ちとは違って」
「……うん」
「だから、ごめん。橙の気持ちには応えられない」
間違いなく好きなのに。
「好きだ。橙に、橙が、俺を助けてくれたんだ。あの街で、迷いなく俺を選んでくれた。俺を肯定してくれた。それがっ、」
嬉しくない訳、ないだろう。
「……すき、なんだ」
まるで子供の駄々のように言い募る俺に、橙はしきりに相槌を打つ。泣かないで、と橙は俺の頬を撫でる。俺は泣いてる、のか?
「赤、ごめんね」
「……、なんで?」
「赤が俺のせいで泣いてることが、すごく嬉しい」
嬉しくて、悲しい。
囁くような声。するりと頬を撫で離れた手は、再びキーボードを叩きはじめる。視線は画面に固定したまま、橙は立ち尽くす他の連中に向かって口を開く。
「早く教室行ったら」
「え」
「もう授業始まってるけど」
つっけんどんな物言いながらに何が言いたいのか分かった。目の縁が赤い。薄い膜の張り始める。早く! 橙の語気が強まった。
行こうと牧田が俺の背を押す。促されて出た先で、橙を想う。ぽたり、涙が廊下に落ちる。ああ本当だ。……泣いてる。きっと扉の向こうも。
***
一人、何食わぬ顔で居座る男を睨み付ける。ああ、気に食わない。自分がこの男より劣っているとは思わない。思わないが、赤に居場所を与えたのはこの男で、そこが自分を裏切らないと赤に信じさせたのもこの男なのだ。
だから俺はこの男が嫌いだ。
俺にできないことをやってしまったこの男がうらやましくて、妬ましくて、嫌いだ。大嫌いだ。
「おい」
「死ね」
「……辛辣すぎやしないか」
うらやましい。うらやましいうらやましいうらやましいうらやましい!
ギリ、と奥歯を噛みしめる。泣きたくない。この男の前でだけは泣きたくない。振られたとはいえ、それだけは俺の矜持が許さない。そんなことを許すくらいなら今ここで舌を噛みきって死んだ方が余程マシだ。
「……まだあるから」
「なにが」
「今日の事件だよ」
「橙の衝撃告白?」
「ほんと死ねよ。写真の方だよ」
ああ、と青は頷く。何しても腹立つな。死んでくれないかな。
「写真回収したところで元は手元にある。データなんていくらでも焼き増しができる。まだあるから」
手を止め、青を睨む。
「その時、赤を一番に守るのは俺だ。お前じゃない」
「ッ」
「ぼさっと俺が赤を守るの見てろよ。ノロマ」
べ、と舌を突き出し親指を下に向ける。誰が、と青は口元を緩める。今度こそ扉から出ていく青の後ろ姿に、詰めてた息を吐き出す。
ああ、クソ。
目があつい。
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