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「あ。インク切れそう」  パンフレットに判を押した三浦がぽつりと呟く。見ると確かに色が薄い。 「補充インク、総合案内に行ってもらってくるわ」  ひらりと手を振り三浦が立ち上がる。いってら、と背を見送る。さて、受付を一人で受け持つことになったわけだが。ちらりと目線を前に戻すと見知らぬ生徒がパッと顔を背ける。  この間……俺と円が放送室で話し合った時からずっとこの調子だ。恐らくあそこでの会話を円が外に聞かせたのだろう。俺はあの時周りに聞かせないための防音機能を備えた放送室だと解釈したが、実際のところは周りに聞かせるための放送室だった訳だ。  そりゃま、放送室はそういった部屋だけどさ。 「思い切りが良すぎるだろ」  俺たちが話したのは椎名由の過去に限らない。当然のことながらそこには椎名円の過去も含まれるのだ。端から守るための一手だと分かっている。そんな身を切った出方をされてしまうと、怒るに怒れないだろう。  周囲の反応を見るに、兄の大胆な作戦は効を奏したらしかった。水をかけられたり上履きをダメにされたり机を汚されたりなんてことはなくなったし、すれ違いざまに暴言を吐かれることもなくなった。  引き換えにこうして遠巻きにされることが増えたのだが……それはまぁ中学の頃と変わらない。嫌われる時は何をしても嫌われる。そういうものだ。 「また君そんな目をしてるんですか」  聞き覚えのある声。それも極々最近。 「越、賀羽……」  強姦未遂以降見ていなかった顔だ。長めだった髪は短く切りそろえられているからか。依然と雰囲気が変わった気がする。 「クソ親父に髪の毛引きちぎられたんで、短く揃えてみました。似合うでしょう」 「……ああ、似合ってる」  家庭内事情が垣間見え、一瞬言葉に詰まる。越は特に気にした素振りも見せず、受付の机に腰を掛けた。 「そういえば俺、退学になったんですよ。知ってました?」 「はッ?!」  制服に身を包んだ越は、指先で学生証を弄ぶ。 「これ、門の機械にかざしたら入れちゃうんですもん。さっさと機能停止しろって副会長に渡してくれます?」 「、田辺に?」 「ええ、お世話になったんで」  言いぶりからして、越の退学には田辺が一枚噛んでいるということだろうか。どいつもこいつも、裏で画策しすぎだろ。ったく、知らねぇ情報をぽんぽん落とすのやめてほしい。いやマジで。頭混乱するから。  俺の表情に、越はプククとせせら笑う。 「ちょっと見ない間に雰囲気変わりました? 前より明るいような」 「……いや、お前も割と変わってんだろ」  前より随分生きやすそうだ。  俺の指摘に越はぽかんと口を開ける。遅れて笑いはじめた越は、一通り笑った後机から立ち上がる。 「だからそれはあなたもでしょうに」  眦に浮かんだ涙を指先で雑に拭う。存外男らしい仕草は、今の越によく似合っていた。 「今日、ここに来てよかった。自主退学して、家に帰ったら親父にぶん殴られまして。勘当だなんだと抜かしながら息子を解き放つのが怖いのか説教部屋に監禁してきましてね」  いやぁ参ったと極々軽い調子で語られたのは、かつての自分と似た境遇。強姦未遂の時から思ってはいたが、越は甲斐とは違い、俺の立場に近い存在なのだろう。搾取することに慣れたやつが、あんな死にそうな表情で人を甚振る筈もない。 「ま、何回説教部屋にぶち込まれたと思ってるのかって感じですよ。――あんな部屋、出ようと思えばいつでも出られたんだ」  誘われるようにして思い出す。満月の夜の日のことを。窓から外に抜け出して、月明りを踏むようにして歩いたあの日のことを。逃げようと思えばいつでも逃げ出せた。それをしなかったのは、 「今あるものに期待して縋ってたら、逃げようなんて思えねぇよ」 「ッ」 「そこ出て新しいもの見れたんだろ? でなきゃそんな顔しないだろうし」  よかったじゃん。  手を上げる。ハイタッチの手だ。一瞬躊躇を見せた越だったが、口を引き結んで手を上げた。パチン、と軽い音が打ち鳴らされる。まるで門出の合図のようなそれに、越の目元が赤らんだ。 「……君に一つ、忠告を」  別れ際。声を潜めて越が言う。 「明日、文化祭最終日。甲斐がここに来ます。アイツの家業の関係で必ず」  ひゅ、息を呑む。俺の反応に越は顔を曇らせる。 「気を付けて。君の泣く姿が、俺は案外嫌いらしい」  相変わらずまどろっこしい言い方だ。ただ一言、心配だと言えばいいものを。  ああでもそんな言い方でこその越なのだろう。回りくどくて、分かりにくい。それでも前よりは生きやすくなった、君の世界に祝福を。 「すみません、スタンプお願いしまぁす」 「はい、どうぞ。楽しんで」  ……明日、か。  パンフレットに押した絵は、俺のいく先のように薄っすらと霞んでいた。

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