15 / 90

【13】「君を満たす権利が欲しい」

頭の良い子だ。 絵に楽器に運動、勉強。 何をさせても人並み以上に出来る。 品行方正で、他の生徒の模範となる。 君は両親の誇りだろう。 それに、母親に似て観賞価値の高い花の様な麗しさだ。 必死に頑張った。 努力し続けて、惜しみなく賛辞を受けた。 だが、渇きはいやせない。 どんどんと深まる。 やがて賛辞は聞きなれたものとなり、 それにつれ永劫に手に入らない人の心を思う。 羨望と賛辞を受ければ受ける程、現実の落差に落胆するばかりだ。 父と母の絶望と、数多くの移植希望者から選ばれた。 しかし自身には価値がない。 価値がないとすれば、心臓の持ち主に何といえば良い。 ――自己肯定が許されないのなら、他の誰かに承認してもらうしかない。 この心臓の持ち主へ報いる唯一の方法は他者に認めて貰うしかない。 導き出せたのは苦しい言い訳としか言えない、随分と屈折した解答だ。 これが限界だった。 「権利?」 「そう、君を満たす権利が欲しい。」 誰でも良い訳ではないのに。 それなのに。 「僕にとって君は何物にも代えがたく尊いものだと考えているよ。」 それなのに、もっとも愛を乞いたい相手からは決して認めて貰えない。 「はっ下らない。初対面の子供に言う台詞じゃないな。馬鹿でも騙されないさ。」 意地を張った。 何故この男は、こんな話をする。 親兄弟でもないくせに。 常に答えは自分自身で導き出してきた。 今までもこれからもずっと変わらない。 「良いこと教えてあげる。」 「何だ。」 「君は夏の終わりにはその考え方を改めるよ。」 錦の価値観が変わったのは7歳の頃、そしてその後三年間で積み上げ られた倫理がたった数週間、数カ月で変わるものか。 「君は近い未来、欲しい物を手に入れるよ。」 この男は錦にとって初めての言葉ばかりを投げかけてくる。 ――誘惑者の差し出す果実を口にした人間はどうなった? 知る必要のない真実を得て、己の生きる世界の秩序の崩壊を招き平穏な楽園から追放される。 「欲しい物なんて無い。」 ――愛されたい。寂しい。 小さな声が陽炎の様に、揺らめく。 「僕はね今まで自分の予想を外したことはない。君は幸せになる。」 ――愛など要らない。寂しくなんかない。 「訳が分からない。」 ――父様母様。 お願い良く生き抜いたって言って。 頑張ったて認めて。 どうか、これからも貴方たちの子供で居る事を許して。 「何もいらない。」 ――苦しい、苦しくない、寂しい、寂しくない。 悲しい、悲しくない。 愛されたい。愛など要らない。 愛してほしい。愛されなくても生きていける。 大事にしてほしい。 抱きしめて欲しい。 もう一度、微笑んでほしい。 ――捨てないで。 他には何も望まない。だから 要らないなんて言わないで。 どうか、側に居させて。 一つ押さえれば堰を切ったように、別の声が響く。 雑音が砂嵐の様に頭に反響する。 頭をかき回したくなるほどに煩くてたまらない。  もう、赦してください。  どうか、赦してください。    金切声に似た悲鳴が頭の中で渦巻く。  側に居る事を、生きる事をどうか、どうか……。 最後の悲鳴を自らの意志で振り切る。 これは不要な感情だ。 「――何も欲しくない。」 言い聞かせる様に低く囁く。 救いなど要らない。 救済など、必要ない。 出来る筈はない。 暗示をかけるように、呪うように自分自身に話しかける。 しかし、愛する人に拒絶されることを平気だと言い切れるほどに無感情なわけではない。 愛する人に不要だと思われるそんな自分自身を許せるほどに 強くはない冷酷には成れない。 ――栓無き事だ。 自らの声で新しい感情の発露を抑え込む。 せめぎ合う相反する感情に蓋をして、胸の奥に沈める。 今のままで良いのだ。 雑音が消えていく。 いまさら感情の坩堝をのぞき反芻する必要などない。 不要な感情は切り落とさねばならない。 これも、不要だ。 俺は自分の足で立ち続ける事が出来る。 彼らに不要とされても、俺は生きている。 どんな思いを抱いても、それが事実。 それが全てじゃないか。 必要とされなくても、衣食住は保証されていれば俺は生きていけるだろう? 植物と同じだ。 誰にも踏み込まれず誰も招き入れず、形だけでも良い。朝比奈の子供として生きていく。それで良い。 それが唯一残された朝比奈の残骸である俺の父と母への贖罪だ。 ようやく到達できたのは妥協を重ねた結果だ。 危うくともようやく均等を得て安堵する。 エラー音はもう聞こえない。 「じゃぁ、言い替えよう。僕がいる。だから君は幸せになる。」 「――は?」 「もしも、僕の言葉が真実になったら君の言葉で答えて欲しい。」 何を答えろと言うのだ。 男は悪戯っぽく微笑む。 「その時、君は幸せかどうか僕に教えて。」 そう微笑んだ男の言葉が、現実になることをその時まだ知らない。 濃密な夏の空気の中に男の笑みが解け、錦の頭の中で消えたはずの雑音が遠く聞こえた。

ともだちにシェアしよう!