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【1】「懇願と言うよりは支配に近い」
海と山に囲まれた別荘には別段娯楽と言うものはない。
しかし手入れされた美しい庭の向こうに海と緑陵を眺望できる風光明媚な場所ではある。
バーベキューテラスのデッキに腰かけ海を眺めるのが錦の日課となった。
毎日飽きることなく別荘の海を見ているが、 幾ら好きでも一日中眺め続けているわけではない。
朝と夕方に一、二時間前後眺める程度で、後は男が用意したブルーレイまたは音楽に画集、本を読んで過ごす。
休日を勉強もせずに怠惰に過ごしたのは初めてだ。
しかし、夏休みが丁度半分経過した時近隣では唯一ともいえる大型商業施設に、 男と二人で出かけた。気付けばその日を境に頻繁に外出をするようになった。
単純に男が地理に詳しくなったからだ。
「錦君、13時になりました。」
リビングルームのソファで寛ぎ文庫本を読んでいたところに声を掛けられ、 活字から顔をあげて首をかしげる。 13時がどうした。
「炊事も終わりました。」
「いつも有難う。ご褒美ならないぞ。」
視線を本に落とす。
「なので遊びに行こう。」
「やだ。」
「錦クーン遊びましょー。」
「やだ。」
「嫌だと断る理由を句読点込みで10文字以内で纏めなさい。」
「暑い面倒。」
本音は読みかけの本が面白いので、最後まで読んでしまいたいだけだ。
「ハイ却下。日焼け止め塗るのでおいで。」
「今朝女性気象予報士の小南 亜里沙が「今日はこの夏一番の暑い日になるので、お出かけの際は気を付けましょうね」と言っていたのを聞いていないのか。 隣にいたキャスターの山岸 栄子も「お出かけの際はご注意ください。」と身振り手振りで話していただろうが。 出かけるのは危険と判断した。俺は彼女達の言うことを信じる。大人しくここに居よう。」
ページをめくると、長い指がひょいと本を摘まみ錦の手元から取り上げてしまう。
何をするんだと男を見上げると彼はにっこりと微笑んだ。
「小南さんの言うことだけど、現時点の観測だ。出かけるなら水分補給と熱中症対策をしろと付け加えていただろ。 それから君適当に端折っていたけど山岸さんは「30度を超す真夏日となっておりますのでお出かけの際はご注意ください。」 と言ってただろ?出かける際、気を付けるのは当然の事だから僕は常に気を付けているし、外出を控えた方がよさそうなら控える。 今更誰かに言われる事じゃァない。」
炊事で忙しそうだったので、外出を前提とした小南と山岸のコメントなど聞いていないと思っていたのに。
ちゃんと聞いていたらしい。
「真夏日と猛暑日の違いはわかるかな?」
「真夏日は最高気温は30度以上で猛暑日は最高気温は35度以上の事を言う。本を返せ。」
男は何故か1000円札を栞がわりに文庫本に挟み込み錦の手元に戻すと、ソファの背後から錦の顔を両手で包み覗き込んでくる。
「錦君。明日以降連日命にかかわる程の猛暑日だったらどうする?」
錦は自然と身構える。
男は正論を吐くことも多いが――錦が思うに――特技は詭弁誤謬レトリックを巧みに使い分けて 相手を弄する事だろうとこの二週間で結論付けた。
要するに良い意味でも悪い意味でも弁がたつのだ。
基本的に温厚で優しいが、極まれに錦が平手打ちをしたくなる程度には意地悪な時もある。
しかし続く言葉は意外にも攻撃性はなく揶揄いの色が強い。
「そうしたら君は「昨日大好きなお兄さんとデートしとけばよかった。」と死ぬまで後悔するよ?」
「…何が大好きなお兄さんだ。お前が俺の事を好きなんだろうが。」
つい言い返し内心後悔しかける。
この男の性格なら、怒って否定するのではなく笑いながら錦をやり込めるのだ。
「ふふふ。良く分かってるじゃないか。嬉しいよ錦君。」
男に頬を包まれたまま背後に首を仰け反る錦に口付ける距離にまで男の瞳が迫る。
睨み付けると更に笑みは深まる。
「あぁ、好きだよ。大好きだ。文句あるかい?」
揶揄われていると分かっているのに、嫌悪も怒りも感じず感情的な問題よりも先に体が反応した。
カッと瞼や耳まで熱くなる。
何故か動悸までしてくる有様だ。
落ち着け心臓。
頼むから、止れ。
いや、止ったら困る。
赤面して俯きそうになる錦の頬を撫でながら、大きな半月が笑みを含んだ。
思考が乱れまともに言葉を返せない錦に、少しだけ声のトーンを低めて囁く。
「ね?僕とデートして。」
誘うように優し気に、しかし懇願と言うよりは支配に近い。
気付けばこくりと頷いていた。
男と出かけるのが嫌なわけではないが何となく従順になるのが癪だったのだ。
もう少し粘れないのかお前はと意味不明の言葉を自分に投げかけた。
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