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【5】「パンドラの箱を開く勇気などありはしない。」
「…抱っこしてあげようか?」
誘惑を断ち切る様に跳ね除けようとした手は、意志に反し男の手と絡む。
それが返事だった。
蝶を捕まえる様に、そっと錦の手を掴み男は自身の首へ回させる。
視線が絡む。
男は揶揄うでも笑うでもなく、真剣な面持ちだった。
だから、錦は余計に苦しくなる。
冗談にできない不器用な自分の代わりに、男が冗談だと笑ってくれたら。
そんな風に考えてしまうのだ。
親兄弟でも友人でもない。
見知らぬ同性相手に感じるこの痛みの意味が怖くなる。
こんなの、知らない。
パンドラの箱を開く勇気などありはしない。
「このまま、抱き返して。」
甘く囁かれる声に従順に頷く。
恋い焦がれる様に両腕を男の首に回し、そのまま抱きしめた。
揺り籠のように男の体温と香りに意識がフワフワと揺れる。
「良い子だ。」
頭から背を撫でられて小さく喘ぐ。
もう何もかもどうでも良くなる。
ずっと男にこうされていたい。
鼻孔を掠める石鹸の様な清潔な香りに胸が苦しくなるほどの切なさを覚える。
ずっとこうして抱かれていたい。
一度も間違えたことなんてなかった。
判断を誤っただなんて、疑うことは許さなかったのに。
男の手をとりついてきたことを後悔し始めている。
出逢わなければ良かっただなんて、なんて馬鹿な事を考えているのか。
どうして、そんなに弱くなってるのか。
心地良さに酔いながら自分の馬鹿さ加減に嫌気がさした。
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